日経18/3/17 文化のページより
伝来の古代刀 鋳造の妙技
復元実験で確認、鍛造の常識を覆す 鈴木 勉
熟した鉄を金鎚でたたいて延ばし、折り重ねて、また、たたく。日本刀はこうした作業を何度も繰り返して制作する。鍛造という方法だ。ところが、奈良県天理市の石上神宮にある国宝の古代刀は、私の察するところ鋳造、つまり鋳物でできている。それを明らかにしようと昨秋、十人の仲間で復元実験に取り組んだ。
刀身に七支刀と刻まれ、左右に三本ずつ枝を広げた特異な形をしている。『日本書紀』には四世紀半ば、朝鮮・百済から七つの枝のある刀が贈られたという記述かおり、この刀が該当するとされている。
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実験に資金の壁
日本で刀といえば鍛造が常識だ。七支刀も誰疑うことなく鍛造と考えられてきた。が、早大で金工史を担当する私には疑問があった。ポキリと析れている刀身の様子や、楕円(だえん)形をしている断面など、溶かした金属を型に流し込んで作る鋳造の特徴が出ていると感じていたからだ。
数十年来の知己で、かねて鍛造説に疑問を持っていた刀匠、河内國平氏に触発され、二人で研究会を作ったのはちょうど一年前だった。
河内さんが七支刀に出合ったのは約二十五年前。考古学の泰斗、末永雅雄氏の指導で鍛造の七支刀を作った。実際に作って疑問を持った。
とはいえ、実験には多くの壁があった。わずかなお金で作ろうというのだから。鋳造は浜田興七氏、善玲氏に依頼した。研究所の佐藤健二、松林正徳、奥村公規、小西一郎、福井卓道の各氏は手弁当で参加してくれた。
復元は木製のモデル制作から始めた。実物と寸分たがわぬ木製を作って驚いたのは、その薄さだった。先端部で三ミリ根元で五ミリしかない。これをもとに鋳型を作った。
が、実験は失敗の連続だった。一回目は刀の表面にぶつぶつと穴がおいてしまった。ガスが噴出したためだ。二回目は、鋳型から溶けた鉄(湯)がはみ出て、せんべいのようになってしまった。
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高温・熱処理で成功
鋳込みは、刀の形に彫った鋳型を向き合う形で接合し、その中に湯を注ぐ。ガス抜きのため、粘土を水で溶き砂を混ぜた粗い真土(まね)で作った鋳型は壊れやすい。少しゆるく接合したのが湯漏れの原因だった。
三度目は背水の陣だった。資金は既に使い果たし、奈良県立橿原考古学’研究所が補助してくれた分も底をついていた。
が、これも失敗だった。
一本は技の根元に亀裂が人ってしまった。形が衛雑な上に、鋳型と刀の貯縮率が違うために起きか事故だった。もう一本は見た目には完成していかが、脱炭のための熱処理を始めたところなかで (根元)がポロリと落ち
た。中に空気だまりができていた。
もはやこれまでだった。しかし、実験に参加した仲間は続行を強く主張した。手間賃はもちろんのこと、交通費もいらないと申し出る皆の熱意に押され、四回目の実験を決めた。
七支刀の両面には六十二文字の象眼銘がある。象眼は彫った溝の中に金を埋め込む技法だ。古代の鋳物に多い白銑は、葎くてわずかの衝撃でガラスのように割れてしまう。象眼が出来ないのだ。しかし熱処理すれば強じんになり、表面に近い部分は軟らかくなる。象眼もできる。
白銑にするには炭素やケイ素の含有量を少なくして涛込む。しかし、ガスが発生しやすく凝固時の収縮も大きい。難しい素材だった。が、復元はそこにこだわった。
四回目、ついに実験は成功した。それも二本だ。熱処理するため河内さんの工房まで運ぶ三時間近くの間、冷や冷やしどうしだった。熱処理はセ氏八百九十度で六時間。二つ並べた炉の熱で天井が燃え出すほどだった。が、真っ赤な炎の中の七支刀は幻想的でさえあった。
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技術的類例に着目
七支刀のような特異な姿をした刀は東アジアを見渡しても見当たらない。類例がないとは、考古学的に研究しようがないことを意味する。が、技術的類例なら形や用途を問わない。そこから古代の姿を浮かび上がらせる。技術移転という視点からの研究手法だ。
七支刀制作の核は刀身の製法と金象眼にある。今回の実験で刀身は鋳造製だという確信に近いものを得た。中国に由来する鋳造技術が朝鮮半島に伝わったのだろう。今も中国では鋳鉄製の農機具が使われている。
象眼の文字には工人の苦心の跡が見えるが、端正とは言えない。中国で見た象眼を見よう見まねで作ったのだろうか。
橿原考古学研究所付属博物館で展示中(二十六日まで)の復元刀は千数百年も昔の技術移転の様子をおぼろげながら浮かび上がらせたのである。 (すずき・つとむ=工芸文化研究所理事長)
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