会津十一代兼定
会津兼定略歴 外山登
室町時代の名工、濃州関住兼定の三代目にあたる孫を古川孫一郎または孫四郎といい、慶長年間に会津藩主蒲生氏郷の鍛冶となり、奥州兼定の初代となる、(三代の子の清右衛門を初代とする説もあり)以後、古川兼定家は会津における最も古い刀工の家柄となり、幕末まで刀鍛冶として活躍するが、十一代目和泉守兼定(以後、兼定と記す)は家職の最後を飾った良工である。
兼定は天保八(1837)年十二月十三目、現在の会津若松市浄光寺町一番地に生まれ、幼名友哉と称した。
十四才の時から父について、鍛法を学び、嘉永六(1853)年十六才の時、御櫓御道具御手入れ見習いとして出仕、技を認められ、親の肩代わり勤めを仰せ付けられ、稽古料一人扶持を賜る。
嘉永七(1854)年から安政六(1859)年までは親の代銘の兼定銘を切り、安政七年から文久三
年まで代銘の兼定銘と、自身の兼元銘を切る。
文久二(1862)年会津藩主松平容保公が京都守護に任命されると、翌文久三(1863)年(二十
七才)、幼名を清右衛門と改め、京都に上がり修業しつつ、和泉守を受領し、慶応元(1865)年二月(二十九才)会津に帰る。受領後、刀銘は和泉守兼定と切る。
慶応四(1868)年四月(三十二才)、命により長岡藩を応援のため、越後国観音寺、松宮雄次郎(侠客名観音寺久左ヱ門)方に於いて鍛刀すべく、弟子の越後加茂の兼元、同与板兼行、京都兼弘、会津兼宗等を引き連れて同地に赴き作刀し、松宮雄次郎本人や分水町の文人画家富敢芳斎の為打ち、その他の作品を造るが、翌五月、長岡藩が西軍に侵され、戦局の激化に伴い六月願い出て帰国する。
七月二十九目長岡城陥落し、越後口からの西軍の進撃が急な中、弾薬輸送を手伝いながら、八月十五日父子同道で登城、兼定十一代目の家督を相続し、七人扶持を賜る。この時、父近江は七十五才だった。
九月二十二目落城し、翌明治二(1869)年九月十目、父近江没し、同日越後に罷り越すように仰せつけられ、加茂町の志田家に駐鎚する。
越後では加茂町志田家に滞在し、地元の青梅神杜の奉納刀及び御神鏡、新発田諏訪神杜の奉納刀、さらに越後一宮弥彦神杜への奉納刀などを製作し、他にも、注文者が多かったらしく、五年間に多数の作品を造り、明治七(一八七四)年九月二十八日(三十八才)若松に帰る。
明治九(1876)年(四十才)より福島県の判任官御用掛として土木課に勤務する。
明治二十五(1892)年六月四目(五十五才)願いの上、皇太子殿下に自鍛の一刀を献納し、殿下奇特に思し召されて酒肴料金十円を下しおかれる。
この時の陰打ちを当時の新潟県知事篭手田安定が求め、二十六年に弥彦神社に奉納している。
明治三十六(1903)年一月十五目、陸軍砲兵工廠に召出され、新設の目本刀鍛冶所に於いて鍛刀はじむ。同行者は十一代長道(万吉)、日下部重道等で、桂総理大臣、英国公使その他宮内高官等の用刀を製作中、急逝す。
時に明治三十六(1903)年三月二十八目、東京の諸新聞はこれを特筆大書す。
菩提寺は若松市実相寺、戒名は精錬印鉄心利剣居士。行年六十七才。
引用文献一、刀剣美術第五十二号所載「会津刀匠和泉守兼定について」米山雲外著
二、『目本刀名鑑』(石井昌国著雄山閣刊)
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