初級日本刀鑑賞法

             

美術刀剣について

日本刀は美術品だとされていますが、刀に詳しくない方には、なんで人を切る武器が美術品なのだろうと思われる方がいると思います。
ところが、刀の鑑賞の仕方が解ってくると、誰にでも刀の美しさが解るようになるものなのです。
ここでは、刀の美しさを理解して頂くため鑑賞法の極く初歩的なことを解説したいと思います。
ちなみに、現在、日本刀は法律上でも美術品として扱われており、所持許可証は文化庁が発行しています。

歴史と区分

鉄製の刀は最初中国から伝わりましたが、独特の反りをもった日本刀らしくなったのは平安時代後期と言われたいます。
その後、刀は時代と共に作風や、姿が変化しますが、それらの大きな変化を古刀と新刀として二つに分けています。
言葉の通りですと、古刀は古い時代の刀であり、新刀は最近作られた新しい刀と考えますが、刀の世界では、それは間違いで、古刀は慶長五年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いを境にして、それ以前の刀を、新刀はそれ以降ものを指します。
なぜそうなのかと言いますと、江戸時代に神田白龍子という刀剣学者が「新刃銘尽」という刀剣鑑定書を発刊しますが、その中に「慶長以後を新刀という」と書いたからなのです。
慶長五年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いを境にして徳川幕府が出来るわけですが、これで戦乱が終わり、刀に対する需要にも大きな変化があり、これ以後の作品を新刀と言い、それ以後、ズっーと今でも言われているわけです。
ただし、新刀の時代にも幾つかの転換期があります。
長い幕府の統治で戦が無かっために、元禄を過ぎると武士は華美に流れて武の心を忘れ、刀の需要が落ちて、作刀技術の伝承が失われます。
それを嘆いた武士であり刀剣学者でもあった水心子正秀が「復古刀」を唱えてもう一度、古き良き刀を作ろうと呼びかけます。
この寛永年間を境にして以後を新刀の中でも新々刀と言います。
さらに、明治になると維新政府の出現で統治の安定から刀にも変化が起こり、これ以降を現代刀と言っています。

時代による姿の変化

ここでは全てを解説出来ませんが、古刀期には日本刀の基礎が完成した鎌倉時代は反りの付いた太刀姿で、特に中期には名工が輩出し、こと刀に関する限り、今でも当時の作刀技術が最も優れているとされています。姿は鎌倉初期は切っ先が小さく元先の身幅に差があって反りの深い太刀ですが、中期以後、先幅が広がり、猪首と言われる詰まった切っ先で、全体にがっちりとした、反りの深い姿となります。
その後の南北朝時代は戦乱に明け暮れたため、質より量の時代となり鍛刀の技術が失われ、長大な刀が作られるようになります。これは、下克上の時代に地方の豪族による武装集団がばっこし、大きな刀を持つことで戦力を誇示したためと言われています。
姿は帽子(切っ先)の伸びた長大なものですが、反り浅く、元先の身幅に差のない姿で、後世に長過ぎて使えないためにほとんどが摺り上げられています。
室町幕府の誕生で応永年間には、ようやくしばしの安定を取り戻し、刀も再び鎌倉中期の再現を狙いますが、既に当時の技術は失われており、似たものは作れても再現は出来ませんでした。
ただ、この頃から、太刀を佩くから腰に差すように変ったようで、姿も鎌倉の腰反りから先反りに変り、姿は反りの付いた太刀姿は鎌倉期に似ますが、南北朝時代の名残から元先の身幅の差が少なく、帽子が伸び心になります。
そして、また戦乱期に入り、室町末期には戦闘用の束刀(一束いくらの刀)が大量に作られたと言われますが、武将の注文打ちによる入念作が残っています。姿は元先の差少なく、片手打ちをしたせいか長さが短くなります。
江戸時代になっても、最初は、また戦乱が来るかも知れない用意から、刀の需要はあり名工がおり、後の新刀と区別してこの頃の刀を慶長新刀と言います。
姿は、南北朝時代の長い刀は腰に差せないため、詰めて使い(詰める時は茎の尻から詰めて、これを摺り上げと言います)、この姿が豪壮なことから、当時の刀はこの姿を真似することとなり、姿は切っ先伸びて、元先の身幅が差なく、反り浅い姿となります。
さらに、寛文の頃には道場剣法が盛んになって、突きが重要視されるようになり、刀もそれを考慮した姿になります。切っ先が小さめで、先幅が狭まり、反りの浅い姿になりますが、この頃の刀を寛文新刀と言い、代表的な刀工があの有名な虎徹です。ですから、虎徹は反りが少なく、有名な割には姿が棒のような感じとなります。
元禄の頃は、武士の気風が優雅に流れ、刀の需要は減り、刀も反りが付いた優しい姿になります。 寛政の頃に武士であり、刀剣学者でもあった水心子正秀が現れて、刀鍛冶は、これではいけないとして昔の名刀を造ろうと呼びかけます。これ以後を新々刀と言いますが、この時に復古刀の目標が豪壮な慶長新刀の姿が見本にされて、その姿が再現されるのです。
以上のように、姿を勉強することで刀の時代が解るようになります。

五カ伝

日本刀の鍛法には次の五カ伝があります。
山城伝 京都を中心に発達した鍛法で、心鉄を多めに、皮鉄は薄いが小木目詰んで特に精良で強く、沸えが強い。
相州伝 鎌倉で正宗により開発された、強さを造るために硬軟の地鉄を混ぜ合わせた鍛法で、特に沸えが強い。
備前伝 生産量では他の産地を圧倒する刀剣王国となりますが、鍛えは木目が主で、刃は匂い出来の丁子刃となり、地には映りが立ちます。
大和伝 奈良の僧院を主にして作られたもので、地鉄は柾目鍛えに直ぐ刃が多く、帽子が焼詰めで返りがなく、鎬の高い造りこみで沸え出来となります。
美濃伝 関の周辺で伝えられた鍛法で、相州か大和から影響が強く、地鉄に流れ心があります。
姿による時代区分と共に、これらの鍛法を覚えると古刀についの鑑定が容易になりますが、新刀では必ずしも、これだけで判断できない場合があります。
古刀期には材料の玉鋼を近くの産地から入手していましたので、地域による個性がはっきりしていたのですが、新刀期には玉鋼の製造や流通を藩が管理して全国に販売したために、地域による特徴が薄れることとなるからです。

地鉄の鍛え方

古刀期には刀の産地により、新刀期には刀工の系列により、地鉄の組み方に個性が出ます。
地鉄の鍛え方には柾目肌、綾杉肌、板目肌がありますが、板目肌には大板目肌・木目肌・小木目肌・梨地肌・無地肌などがあり、更にそれらに流れが混じるものがあります。

刃紋

直刃と乱れ刃があり、乱れ刃には小乱れ・丁子・互の目・湾れ・新刀には涛乱刃とか簾刃があります。 また、刃淵には雲のように見える匂いという働きがありますが、そこに光った砂を撒いたような感じで沸えが付くかどうか、さらに沸えが荒いか細かいかなどが見所となります。
また、刃中の働きとして、匂いが深い、刃淵が締まる、足が入る、砂流し、金線、芋づる、葉、などがあり、これらは教わるとわりと簡単に覚えることが出来ます。

観賞の仕方

以上のことが理解出来ると、まず、刀の美しさが判るになります。
刀を観賞している人が、刀を光線に透かしているのを見たことがありませんか。
ある角度で、電灯の光線を刀に映して観ると刃の中が見えて、匂いとか、その他さまざまな刃中の働きが見えます。
また、別の角度で地鉄に光線を当てて、観ると地鉄の組み方が見えるのです。
そして、刀工の特徴を知ってから、この方法で観賞すると茎に柄が嵌っていても、その刀工名を当てることが出来るようになるのです。
こうして鑑定法を勉強する入札鑑定という方法が古来から使われています。

勉強方法

刀について詳しい人に、実際に刀を電灯に透かして観る方法を教わってください。
まともな愛刀家なら、必ず親切に教えてくれることでしょう。
刀を求めようとすると、安い品物ではありませんので、知ったかぶりをしないで教わりながら勉強をして下さい。そこには謙虚な姿勢が大切と思っています。

以上に書いた他にも、なかなか口では説明出来ない部分もあります。
例えば、地鉄についての表現に、硬い、柔らかい、強い、弱い、立っている、倒れている、潤いがある、カリカリしている、しらける、ざんぐりしている、地沸えが強いなどの言葉がありますが、これらは場数を踏んで数多くの刀を観ないと解らないものです。
初歩的なことが解れば、刀の美しさが判りますから、その後に勉強をして、日本の誇る日本刀の美しさが出来るだけ多くの方から解るようになって欲しいと願っています。 ごく初歩的なことを書かせて頂きました。

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