普段何気なく使っている言葉などのなかに、刀から波及した言葉や諺がたくさんあります。ここでは、それらの言葉についてご紹介します。
なお、この一文は、刀剣美術13年2月号の萩原 守著「憧憬雑感(刀と言葉)」の中より引用させて頂きました。

刀とことば


日本刀の重さは約750グラムくらいでありまして、野球のバットとほぽ同じくらいの重さであります。洋の東西を問わず棒状のもので、人問が端を握って使用する道具の適度な重さが同じということに驚き、また、なるほどと納得させられる値でもあります。
この七百五十グラムの刀をつくるには、玉鋼(たまは、がね)という高級な鉄が約二千二百五十グラム必要です。この二千二百五十グラムの鉄を鍛錬し、約三分の一にあたる七百五十グラムの製品にする工程に関連して、不必要なものを排除し、必要なもののみを残す「鍛え」の作業から「…を鍛える」「鍛え上げる」「体を鍛練する」「心身を鍛練する」という言葉が生まれました。

玉鋼を生産するのには、「たたら」という施設たたらが必要です。「踏輔」というのは大型の「ふいご」のことでありまして、足で強く踏むことから「たたらを踏む」という言葉が生まれました。これには、力があまって空足を踏むという意味があります。
刀を鍛錬する作業は刀工一人ではありません。
刀工の弟子達が向こう槌を打ちますが、親方の指示に的確に答えて打たなければなりません。
トンテンカン、トンテンカンと実にリズミカルに槌が打たれます。このように的確に調子を合わせる作業から「あいづちを打つ」という言葉が生まれたのです。

その鍛錬した鉄を刀に仕上げるには、刃をつけなければなりません。そこで生まれたのが、「焼きを入れる」という言葉です。今では無頼の徒の言葉となっていますが、この言葉はしっかりとしたものにするという意味が込められておりまして、焼きが入っていないと「なまくら」となってしまいます。気力や体力が劣ってきた時などは「焼きが鈍(なま)った」などといい、そしてインスタントでは「つけ焼き刃」となります。
ここまでは刀匠の仕事ですが、きれいに仕上げるのには、研ぎ師の手を経ねばなりません。
日本刀の美しさを引き出す最後の工程から生まれたのが「研ぎ澄ます」という言葉であります。
研ぎ師の手を経て、せっかく研ぎ上がった刀でも、手入れを怠ると錆びるのです。鞘の中で錆び付いてしまい、どうにもこうにも出未ない状態を「抜き差しならない」といいます。くれぐれもこのようなことにならないよう、日々の精進が必要なのです。

人の一生には幸不幸は常につきものであり、成功することもあれば失敗することもあります。
いわゆる人事を尽くして天命を待つといった場合は、自然あきらめもつきます。ところが、不謹慎、不注意、不用意の結果の不幸や失敗は、すべて「身から出た錆」なのであります。また、鍛えの優れた刀は錆びにくく鍛えの粗雑な刀は錆びやすいものです。刀の錆にもいろいろ原因がありまして、外的要因で出る錆は仕方ないにしても、内的要因から生じる錆は、誰を恨むことも誰のせいにも出来ません。みんな自分が悪いのですから、悔いても嘆いてもいたしかたがないということであります。

さて、刀は腰に指して悠然と歩くものですが、「おっとり刀」などといって、刀を握ったままで慌てて出て行く様を形容した言葉は、まさに当を得たものであります。突然行う行為を、「抜き打ち」といいます。抜き打ちテストは学生などに恐れられたり、抜き打ち検査は当事者をドキドキさせます。「抜く手も見せぬ」という言葉は、目にもとまらぬ手練の早わざのことであります。

物事をスパッと片付ける時などは、「一刀両断」とか「快刀乱麻(を断つ)」といいます。威丈高な態度や大袈裟に思われる態度などを「大上段に振りかぶる」といい、信頼のおける近臣や配下といった大切な腹心を「ふところ刀」といいます。そして最後の切り札として登場するのが「伝家の宝刀」でありまして、これを抜くと何でも解決するという優れものなのであります。

柄の鮫皮の上に据える金具を「目貫」といいめくぎです。元々目貫とは、刀を止める目釘の表面を飾る金具でありました。目釘が無いと柄から刀身が抜けてしまって、役に立たなくなってしまうほど重要な部分であることから、大切な所、主要な場所という意味で「めぬき通り」「めぬきな所」などという言葉が使われたといわれています。元来、目釘と目貫は同一の物でありましたが、時代が下がると、現在我々が賞玩している目貫のように、目釘とは別の、単独の飾り金具となりました。

柄と刀の問には「鐔」があります。一般には鍔(つば)の字を当てておりますが、刀の社会では主に鐔の字を当てておりまして、鐸好きの人を「愛鐸(あいたん)家」といい、「愛鍔(あいがく)家」とはいいません。

甘党の人には堪らないものに「きんつば」というお菓子があります。このお菓子は上方の銀鍔焼きがルーツといわれておりますが、刀の金鐔や銀鐔がモデルとなっていたことはいうまでもありません。ただモデルとなった鐔は稀少な金無垢鐔や銀無垢鐔ではなく、世上によく有る表面を金や銀の薄金で包んだ金鐔や銀鐔でありまして、中身は金や銀以外の金属、即ち「あんこ」がいっぱい詰まったものであったのです。

鐔と鐔とが強く打ちあたるような激しい戦いを「つば競(ぜ)り合い」といいます。鐔と鐔がせり合ったならば、お互い切ったり切られたり、あちこちに切り傷が生じるほどの切迫した状況が、この言葉になりました。また同義語に「しのぎを削り鐔を割る」とか「しのぎを削る」という言葉が使われています。「鎬(しのぎ)」とは、日本刀の刃と棟の中間にある稜線、または稜線から棟の間のことでして、この部分を削るほどの激しい戦いということです。

鐔の両側に組み合わせてある小判形の金属板を「切羽(せっぱ)」といいます。現在も「切羽詰まる」は、物事がさし迫る、全く窮する、身動きがとれない等の言葉としてよく使われています。

さて、日本刀には反りがありますので、必然的に鞘(さや)にも反りがついています。中身の日本刀と鞘の兼ね合いから出た言葉に「反りが合う」「反りが合わない」という言葉が生まれました。

艶種(つやだね)の言葉に「恋の鞘当て」がありますが、些細なことから意地の張り合いとなって、血をみるような結果ともなりかねない、武士と武士が意地を張り合う「鞘当て」に因みまして、この言葉が生まれました。

刀が出来上がった時は、長さや反りがピッタリと刀に合った鞘が作られます。なにかの事情でその鞘と別々になっても、やがて出会って元の鞘におさまることが、刀にとっても鞘にとってもシックリと馴染んで幸せなのであります。

このように、いろいろな事故や訳があって、夫婦別れをしたり、お互いに喧嘩をしたり仲違いをしたものが、うまく和解出来て元未の姿になることを「元の鞘におさまる」といいます。元の状態にピッタリと合って一つにおさまることが、人も鞘もめでたしめでたしといったところでしよう。

刀に関連した言葉に「土壇場」という進退極まった場面に使う言葉がありますが、これは斬罪の刑場から運ばれてきた罪人を試し切りするために、土を盛り上げた土壇から引用した言葉でありまして、ここに乗ってしまったら最後ですよという意味なのです。

また「折り紙付き」という言葉もよく使われます。「折り紙」というのは証明書のようなものであることは周知の通りでありますが、この折り紙とは、刀の本阿弥家と刀装具の後藤家だけが発行出未たものでして、金額を表示し、品物を保証した確実な信用から生まれな言葉なのであります。

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