正宗はいなかった? 下
正宗はいなかった? 下(13/12/2号より)
抹殺論を超え時代とともに出世
幽玄美の道を現代刀工も追う
時代を追って正宗は出世した。評価が上がっていたのである。明治の「正宗抹殺論」以後は少し足踏みしたが、そんなことをよそに正宗の美を追いかける刀匠の挑戦は今も熱く続く。
写真説明 歌川豊国(三代)作「正宗湯かげんの旧図」
(大阪錦絵 三枚つづき、36.9×76.7センチ、江戸時代)
中央が正宗。左に国俊、右に団九郎が向う槌を振るう。
豊臣秀吉がとり上げ、徳川家康が育てたともいえる正宗だが、秀吉以前にもそれなりの評価はされていたようだ。織田信長や秀吉に仕えた桃山時代の茶人、津田宗及の『宗及他会記』の天正八年(一五八○年)三月二十二日の記録に正宗が登場する。上様(信長)の御前で御脇指(わきざし)十四腰、御腰物八腰が振る舞われたとある。茶事に信長を客として招き、当時の名刀を並べたのである。
脇指では薬研透(やげんすかし)吉光、無銘藤四郎、アラミ藤四郎などの名のある吉光にまじって、上龍下龍正宗、大トヲシ正宗の名があり、腰物分として正宗(ウチイ五郎入道)が記されている。ウチイは「氏家」のことといい、五郎人道は正宗の別称である。
この刀は「油屋に質に入っている」との記述も目を引く。正宗がその当時、商人によって値踏みされていたことのあかしであろう。
『信長公記』は、織田信長の祐筆(ゆうひつ)、太田牛一の著書だが、正宗に触れた記述がみられる。前述の記事の翌天正九年(一五八一年)七月二十五日の項に、信長は安土城で長男信忠に「正宗」を、二男信雄に「北野藤四郎吉光」を、三男信孝に「しのぎ藤四郎吉光」を与えた、とある。翌年、信長は本能寺でその生涯を閉じた。
ちなみにやや古い室町時代の刀剣書『能阿弥本銘尽(のうあみほんめいづくし)』(文明十五年=一四八三年)によると、京都での藤四郎吉光と正宗の評価は、吉光が万疋(まんびき)に対して正宗は五干疋であった。『信長公記』に至って両者の価値は逆転した感がある。
正宗に関する資料は、刀剣の専門書はいざ知らず、一般の古書にはあまり登場しないが、他の刀工に比べれば記述はかなり多い方だという。最も古い記述は、前々回にも述べたが貞治六年(一三六七年)に素眼法師が著した大衆向けの初等教科書ともいえる『新札往来』である。少なくとも南北朝中期には正宗ら相州の一党が、作刀の名人として広く庶民にまで知られていた。
一条兼良(一四〇二-一四八一年)の選といわれる『尺素(せきそ)往来』は、『新札往来』のいわば増補改訂版で室町時代の初等教科書だが、ここに国光と正宗は一代の達者で「不動の利剣に異ならず、所持や贈呈にするもの」とある。応永二十三年(一四ニハ年)の書という『桂川地蔵記』や故実家として知られた伊勢貞頼宗五が大永八年(一五二八年)に書いたという『宗五大艸紙(そうし)』などにも正宗の名があるという。
時代とともに正宗は出世していく。
室町期の『奉公覚悟之事』に、進物になる名物として、古備前派の両雄、正恒と友成の次に粟田口藤四郎吉光がきてその次に正宗の名がある。名工、国吉や後烏羽院の御番鍛冶(かじ)の久国よりも前である。序列順に書かれたとばかりは言えないが、「正宗がかなり格上げされた感じがする」(渡辺妙子佐野美術館館長)という。
その後も、宗及の茶会記や『信長公記』に登場した正宗は、さらに前回記したように『本阿弥行状記』に現れる。
本阿弥家の家伝書ともいうべき書物である。本阿弥光徳が"舌禍事件”で徳川家康のご機嫌を損ねた後は、子の光室が専ら家康担当となったことが書かれている。この光徳が毛利輝元に与えた伝書ともいう『光徳刀絵図』に載る六十六口の名刀の中に、正宗は四口に過ぎない。どうやら光室が家康に抱えられたころから正宗への執心・傾倒は強くなったようだ。
本阿弥光忠が享保年問に書き、将軍吉宗(一六八四-一七五一年)に差し出したという『名物牒(ちょう)』は一般に『享保名物牒』と呼ばれるが、ここには四十一口(焼け身は十八口)の正宗が載っている。いかに江戸期に正宗が大出世したかがわかる。
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ところが、明治以降になってからの正宗に対する扱いは冷ややかだったとしか言いようがない。初めて戦前の旧国宝に指定されたのは、一九三六年(昭和十一年)。刀は前回紹介した「城和泉守所持」銘のものだった。ほかの刀工の名刀が明治時代以来いくらも旧国宝に指定されてきたことを考えると、意外なほど遅い。「正宗は存在しなかった」という今村長賀(ながよし)らの「正宗抹殺論」の余波がなお尾を引いていたのである。
平成の今、正宗を追う人々がいる。
正確には正宗の美を追う現代の刀匠たちである。この相州鍛冶の統領が世に出たといわれる鎌倉末期から約七百年という遠い昔の美に挑む。「古人が(正宗のような)あんなに素晴らしい物を残してくれた、そのことを思うと言葉がみつからないほどの感激です」と語るのは現代作刀界の第一人者で人問国宝の天田昭次師、七十四歳。
「昭和十五年の人門以来、全国に伝わるさまざまな鍛法を学び、作刀して六十年余。私に残された最後・最大の目標が正宗です。正宗を見る刀の放つ幽玄美に心を奪われてしまう。どうしてこういう世界が生み出せたのか。地鉄(じがね)と刃に見られる激しい変化の妙昧に酔いしれる。それまでの古備前や山城の刀の持つ端正な美しさとは打って変わって、正宗の美しさは豪放自在。自由なものが感じられます」と言う。
正宗の刀の持つ美の「自由自在」さについては、刀剣の古伝書の一つ『解紛記」(慶長十二年=一五〇七年)が四百年も前に「全体としてわざとらしい焼き刃が一切ない」ということを強調している。『解紛記』の著者は、本阿弥家中興の祖で希代の目利き、本阿弥光徳ともいわれている。現代鑑刀界の大御所の一人だった本問薫山も「鎌倉物の見所には焼刃つくろわずして自然の体なり」と補注を加えている。
鉄という錆(さ)びやすい金属を、鍛え、研いで金やプラチナよりも品格と光輝ある造形物に仕立て上げたのが日本刀である。刀の姿、地鉄の味、刃文。この三者が一体となって刀の美を形作る。刀身というカンバスに、刀工はさまざまな絵を描くのである。それが地鉄にゐる鍛え肌の美であり、焼刃の刃文の美しさである。
戦後、作刀は美術工芸の一分野としてかろうじてその命脈を保ってきた。
人問国宝だった今は亡き刀匠、隅谷正峯師は「鎌倉を攻める」という言葉が好きだった。鎌倉時代の鍛法を完全に復元できなければ、鎌倉時代の刀の美しさは生み出せないと語っていた。
「鎌倉時代の刀の地鉄を追おうとするなら、鎌倉の刀工のやり方を見つ出し再現するのが一つの道であるが、それがもはや皆目見当がつかない」(『私の履歴書』)とかってつづった。
天田師もいう。「私たちは作刀法の模索はそれこそしらみつぶしにやってきた。あらゆる試行錯誤を繰り返してきたが、鎌倉への道は遠い」と語る。
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『新薄雪物語』は、正宗を主人公にした芝居の一つである。寛保元年(一七四一年)の竹田小出雲らの作。子を思う正宗の情愛が主題だが、作刀の秘伝が隠れたテーマになっている。古来、作刀にはさまざまな秘伝があって、今でいう企業秘密扱いされていた。
物語は、若き正宗が京都の名工、来国吉に弟子人りし、一子相伝の鍛法の秘密を伝授されたところから始まる。
鎌倉に戻り希代の名工となった正宗のもとに、名を秘して師の旧吉の孫、来国俊が弟子入りする。国俊は、親の国行が殺され、断絶した鍛冶の家を再興しようと正宗に入門したのである。正宗は国俊の志に感じて、実の子の団九郎にも伝授していない焼き人れの時の湯の「湯加減」の秘伝を国俊に伝授した。
おりしも、幕府から刀の注又が来て、正宗は国俊と団九郎を向こう鎚(づち)に鍛錬し焼き入れをした。そのとき団九郎はここぞとばかり、湯加減を知ろうと湯船に手を入れた。その刹那(せつな)、正宗はわが子の手を切り落とした。団九郎は悪事の仲問に入っており、来国行殺害の一昧だった。息子に湯加減を教えなかったのは、さらに悪事に使われることを恐れたためだ。しかし、これを機に団九郎は改心し命拾いをするという筋書きである。
右ぺージに示した三代豊国の版画『昔々正宗湯かげんの旧図』はその場面を描いたものだ。この歌舞伎をきっかけに、名工正宗は、江戸の町民にも親しまれるようになった。確かに湯加減や焼き人れは、作刀の急所の一つとして難しいものがあるようだ。例えば隅谷師は、真っ赤に熱した刀身を水中につっこむ焼き入れの仕事は「○・二秒の勝負」(同)と呼んで、一気阿成(いっきかせい)の重要性を力説していた。
無銘の刀が多いことから始まった「正宗抹殺論」は一刀の美をどう見るかという点で革命的な一石を投じたといえる。日本刀は基本的には在銘のものを基準にしてその真贋(しんがん)や美醜を鑑定してきた。刀剣界の一部には、在銘の正宗よりも無銘のものの方に優作が多いことから、在銘品に頼りすぎる鑑定に疑問を抱く人もいる。さらに、正宗ら相州の刀の持つ美しさに否定的な人がいるのも事実。まさにかつて、今村長賀が正宗を一備前の刀などに比べて品格が落ちる」となじったのと似たような言い方である。改めて、抹殺論の折の有力な論客だった犬養毅に登場願おう。彼は、正宗を抹殺するのは軽率だと今村をたしなめた。友人でもある彼に「今村氏は備前物を愛好するの余り(正宗など)相州物を排斥する癖がある」と述べ、「備前は自ら備前の妙あり、相州は自ら相州の妙あり。いわゆる同工講なるのみ。山の美は水の美とおなじからずといえども美はひとしく美なり。竹の音は糸の音とおなじからずといえども妙はひとしく妙なり」。
名調子で正宗を守ったのである。
文・竹田博志