説明)この一文は、ある雑誌に載ったもので、外国で仕事をなさった刀剣研ぎ師が日本刀を日本の文化として感じたことを紹介されているのですが、共感して読ませて戴いたのでファイルしていたものです。ただ、載っていた雑誌を忘れてしまい、ここでお知らせ出来ないことをお断りしておきます。

17/3/15 今、新潟市歴史資料館で「人間国宝・天田昭次 鉄と日本刀展」が開かれています。(3月5日から27日迄)
次の記事をお書きになった三品謙次先生が3/6日の日曜日にがお出でになって解説をなさることを知り、どうしても三品先生にお会いしたいと思って出掛けました。
当日、解説をしておられる三品先生を撮影させて頂き、私のホームページに掲載させて頂く事をご了解頂きましたので次にご紹介します。



日本刀は文化である

国際化と日本刀 日本刀砥師 三品謙次


 私は昭和四十九年、神奈川県大磯の日本刀研師永山光幹(平成十年重要無形文化財技術保持者〔人間国宝〕に認定される)のもとに入門しました。
日本刀の職人に第子入りする場合、家業が刀に関係していることが多いのですが、私の生家は、刀とまったく関係のない世界でした。もともとはアメリカに雄飛するのが夢で、そのために大学で英語を勉強したのですが、いつのまにか日本刀に魅せられ、たまたま研磨という仕事に巡り合ったのです。
 この世界は非常に封建的で、修行の方法も仕事のやり方もほとんど江戸時代と変わっておりません。入門当初、私にとって研ぎの修行はまったく場違いのように思えました。また師匠や先輩たちも、..私に対して同様の印象を持ったと、後で聞きました。

 刀の研師として生さていく以上、一生、外国とも英語とも縁がないだろうと思っていました。まさかアメリカやヨーロッパに百万本以上の日本刀が存在するなどとは、夢にも思っていませんでした。しかしすぐこの現実を知らされることになります。師匠がある日私に英語の雑誌グラビアを見せて、自分が紹介されているのでその部分を翻訳してくれとい うのです。その雑誌はアメリカの有名な経済誌でした。師匠の紹介文を読んで、アメリカ人も日本刀にかなり関心を持っていることがよくわかりました。その後大勢の外国人記者が取材に来たり、海外から親子入り希望者があったりで、私が必然的にその応対役になり、研ぎの修行をしながら、皮肉にも再び英語の勉強をする羽目になりました。

 私は五年間の修行を終えた後、師匠代理を任されるようになり、その後八年間で約三十人の第子の面倒を見ました。その中には数人の西洋人も含まれています。
 日本刀の研磨というのは、ほかの刃物のそれとはまったく異なります。単に切れればよいというのではなく、日本刀を芸術品として、いかにその美しさを引き出すかということが重要なポイントになります。また、研磨の良し悪しが刀の価値に大きな影響を与えることも事実です。日本刀は造られた時代をよく反映しており、研師はその時代背景と刀工の作風をよく理解して仕事をしなければなりません。日本刀の研磨は今でも手仕事で、長くつらい修行を必要とします。一流の研師になるためには単に努力だけではなく、持って生まれた才能も必要とされます。はっさり言って、努力が才能をカバーするということはありません。人より何倍も努力しても報われず、数年後には研師の道を断念したというケースもよくあります。昨今はこの修行の厳しさのためか、若い世代の研師の数が減少しており、将来が危惧されます。

 さて、戦後の日本刀の世界を振り返ってみますと、敗戦と同時に、劇的な歴史の変化に晒され、日本刀の本質を変えてしまうような状況がありました。すなわち、本来武器であった日本刀を純粋に美術品として認識し、戦後生さ延びる道を求めたのです。そのため一千年の歴史を持つ日本刀の本質をかなり矮小化してしまったのではないかと思われます。つまり日本刀は、単に武器として、あるいは美術品として評価され認められてさたのではなく、日本文化の重要な部分として、あるいはサムライ文化の根幹として、われわれ日本人にとって大きな存在であったはずです。
 近年私は、しばしば日本刀が文化そのものであるということを言い続けてきました。日本刀を美術品という狭い範疇で語るのではなく、もっと大きな文化という観点で見直さなければならないということです。戦後は急速な日本の経済成長とともに刀が投資の対象となり、株や絵画と同じように、いま購入しておけばこれから値上がりして必ず儲かるというような状況の中、日本刀の持つ重要な部分が忘れ去られてしまったのではないでしょうか。それは、初めて刀を手にしたときに感じた言いようのない緊張感と鮮烈な驚き、そして畏敬の念とも言うべきものです。私は日本刀と対するとき、いつもこの気持ちを忘れないようにと自分に言い聞かせています。
 この想いは自分のアイデンティティーの発見であり、私が日本人として生きていくための原点になるものです。日本刀を通してこの発見があったことは、私の人生にとって非常に大きな意義のあることでした。

 多くの日本人は、自分がサムライの子孫であることに誇りを持っていると思います。あるいは当然持つべきでしょう。 現実には江戸時代の武士は全人口のわずか八パーセントに過ぎません。しかし日本人は、自分がサムライの子孫であるという自覚を持ち、自分の行動をサムライの規範(武士道)に照らして律することを心がけてきました。自分の先祖が本当にサムライであるかどうかは、それほど重要ではありません。たとえば英国人が、先祖はジェントルマンの家柄ではなくとも自分たちは紳士らしく振る舞うように。自分の国が持つ歴史と文化を常に自分自身のバックポーンにおいて仕事をし、生きることが日本人として極めて自然なことではないでしょうか。残念ながら、日本人が正しく日本人であることを認識でさなくなってしまったような気がします。従って日本人であることに、自分自身に、自信が持てなくなつてしまったのではないでしょうか。今日でもサムライ文化が日本人のアイデンティティー となるべきで、それによって国際社会において日本人の自己表現がより明確になり、より深い理解が得られるでしょう。
 自分の国と文化に自信を持てない国民は大変不幸であり、他の国の人から尊敬されることはありえません。われわれは先祖から誇りとすべき大さな歴史遺産を受け継いだのです。そして私は、研師として武士の魂である日本刀を研ぐことによってそのことを学んだのです。

 昭和六十一年、師永山光幹のもとから独立すると同時に、私は英国に渡り日本刀の研師として開業することになりました。私の教え子の英国人から、ぜひ一流の研師をヨーロッパに招聘したいとの強い要望があったためです。幸い英国刀剣会や大英博物館の協力もあり、労働ビザを取得することができました。とりあえず、ロンドンの東隣にあるエセックス州のハルステッドという小さな町に住む教え子の家に居候して、仕事を始めることになりました。
 最初の一年間は英語と文化の違いにかなり悩まされましたが、徐々に日本刀の愛好家の温かい協力で仕事も順調に行くようになり、英国、オランダ、ベルギー、ドイツなどの日本刀の勉強会で講師として日本刀の歴史と鑑定を教えることになりました。これは、私が平成四年に帰国するまで休みなく続けました。おかげで日本刀を通していろいろな国の人と親しく付き合うことができ、親友と呼べる友人も何人かできました。その間結婚して 自分の家を持ち、平成二年に長女が誕生しました。近隣に日本人は一人も住んでいませんでしたが、保守的な英国社会にも受け入れられ、友だちも大勢でき、大変幸せな生活を過ごすことができました。
              ′  英国で実際の仕事をしていて強く感じたことは、彼らは日本刀を単純に武器や美術品として見るのではなく、日本文化として考えていることでした。従って、彼らは日本刀を通して幅広く日本の歴史や文化を勉強しており、生半可な知識ではこちらが恥をかいてしまいそうでした。時々、日本企業の駐在員が日本の歴史や刀のことを知らなくて恥をかく、とこぼしていました。
 驚いたことに、ヨーロッパの愛刀家は日本人以上に熱心に勉強し、もっと大きな視点で日本刀をとらえていたのです。

彼らと酒を飲み交わすときは、いつも文化論や人生論に花が咲きます。日本では酒の席でこのような話題は敬遠されがちですが、これからは刀をそのような次元で話すことがでさるようになればと思います。われわれは、もっと日本人を真面目に考えるときに来ているのではないでしょうか。  日本の国際化が言われて久しいのですが、日本人の国際化はまだまだのようです。英語を上手に話す人はずいぶん増えましたが、国際社会で自信を持って自己主張できる人は少ないようです。残念なことに、若い世代の人が意外にコンプレックスが強くて、頼りにならないことが多いのも気になります。私は日本刀と一緒に生きてきて、どこに行ってもコンプレックスを持つことがなかったように思います。英語は下手でも自分には刀があるという安心感があり、私の主張を堂々と言うことができました。文化とか芸術というのはありがたいもので、それを受け入れるのにどこの国の人でも寛大です。そして、日本人が知らないうちに日本刀の素晴らしさが世界の多くの人に理解され、関心が高まっているのをうれしく思います。
 国境という垣根がますます小さくなっていく中で、日本人が自分たちの歴史と文化を正しく認識し、新しい世紀を豊かで崇高な精神を持って生きていくよう願うものです。


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