山本清廉について

      

「刀工山浦真雄 清麿 兼虎伝」(花岡忠男著)にこの刀の添え名の山本清廉についての記述がありましたので、次に引用します。

「小諸藩士山本清廉

山浦兄弟の揺藍(ようらん)期である天保初期、真雄は二年から四年にかげて「古鉄ふるてつ」「卸鉄おろしがね」「出羽卸鉄いづはおろし」の各種鋼材名を、茎なかごに加刻したことは既述した。この添銘は以後ほとんど切ることがない。ともあれ加刻したうちの一つに次の脇指がある。

使信州住寿昌以出羽卸鉄鍛焉
小諸藩山本清廉誌
天保四年癸巳二月

この添銘は真雄の小諸滞在、あるいは程近い生家赤岩の所在を示すものであるが、鍛冶場という固定設備から考察し、当時はまだ赤岩在住時の作と考えるべきであろう。
この山本清廉(きよかど)は真雄にとって、後に小諸藩工時代の指導的援助者と思える藩士(牧野家臣)である。かつて真雄が一刀流剣術を習った師匠、諏訪清廉と名は同じであるが、もとより別人で、山本氏は諏訪氏と異なり城中に自席をもった上級武土である。
この脇指添銘は"信州住寿昌(としまさ)を使い、出羽卸鉄を以て焉これを鍛えしむ。小諸藩山本清廉誌す"と読む。この銘文によると、清廉は刀剣にかなりの興味を有し、通暁していた人物として注目される。
さらに十一年後の太刀にも

於信州小諸藩山本清廉邸同国住天然子寿昌作之
天保十五年甲辰二月(後掲押形)

と切銘したものがある。
この時はすでに藩工身分で鍛刀場所は刀銘の山本渚廉邸内である。兼虎筆録『家譜断片』、天保年問の項、<真雄ハ当時小諸二寄留>に合致する。
とまれ、以上の論旨を『真雄・渚麿揺藍期の周辺』(「一近」銘小刀の考証的試論を中心として)と題して『刀剣美術』(九回連載・三〇九号所掲)に発表したところ、小諸町在住の愛刀家沼田正志氏が山本清廉と屋敷跡の調査に入られた。沼田氏は旧制上田中学(県立上田高校前身)時代の先輩で、小諾藩士の末裔、現在は小諸市文化財審議委員を務めている。以下は同氏報告によるところきわめて多い。

山本清廉は美濃守清重八代後喬、清安(幸次)の子で名は亘(わたる)、要左衛門と称し、号は日道、行年六十五。六代前祖清成(金箱)は家老牧野八郎左衛門二男で養子した人がある。家格は後代の享保十八年(一七三三)(曽祖父清玄か祖父清福かは分明せず)『牧野康周(やすちか)家中分限帳』では、<御奏者山本金右衛門石高六十石御役料十三俵>である。渚廉その人は後世に長野県議員を務めた山本清明(才之助)の祖父に当る。古老遺談による清廉は藩主にも、ずけずげ直言するほどの剛直な武士であり、重臣の一人であったという。
筆者は、前記の脇指添銘と天保九年(一八三八)短刀「信小諸臣寿昌」(刀銘年紀鍛刀地は次章)から、藩抱工となるきっかけは、「給人(きゅうにん)格」の上士、この山本要左衛門清廉によるところも多いと考えている。(略)」

なお、後掲押形として後のページに、この刀の茎の押形が掲載されています。

ホームページへ戻る

ご意見、ご要望がございましたらntoyama@geocities.co.jpへメール下さい。