会津兼定と越後加茂


               日本美術刀剣保存協会の月刊誌「刀剣美術」26年11月号に掲載しれましたのでご紹介します。

 私は新潟県三条市の同郷の栗原信秀の事跡について調べていますが、隣の加茂市に明治二年から五年間滞在した十一代兼定にもご縁が あって研究するようになりました。  既に、兼定に付いて刀剣美術の平成十年十月号に「会津兼定の観音寺打ちと侠客観音寺久左衛門」を平成十六年八月号に 「会津兼定の作風」を発表させて頂いています。  いずれの記事にも書きましたが、当時の加茂の資産家である志田家が、会津では刀を打てなくなった兼定に加茂に来て打たないかと誘い、 兼定が藩主に相談した結果、罷り越すようになったものです。  このようにして加茂に来たのは、当時の志田家の当主が愛刀家で、会津の刀工にも詳しく、恐らく兼定のファンだったことから、戊辰戦争 敗戦後、会津では作刀出来ないため、加茂に来て鍛刀するように勧めたものと考えていました。  実際、兼定は加茂に五年間滞在して沢山の作品を打っています。県下には兼定の作品が沢山あり、私自身、膨大な数の兼定に出会って 来ました。また近在の先輩の愛刀家にも人気があり、加茂打ちは勿論のこと、明治前の作品を所蔵している方が結構おられました。  私が今までに所蔵した兼定の作品は加茂打ちだけで約三十本位あったと思います。(資金の関係で持ち切れず、現在は十数本です)他にも、 三条歴史民俗産業資料館で兼定展開催をお手伝いの折にお借りした作品、友人所蔵の作品を鑑賞したものを含めると詳しく調べた加茂打ち だけで四十本以上になると思っています。  一愛刀家でしかない私が、これだけの加茂打ちの兼定で出会っていることが、この論文を書くきっかけになりました。  このような沢山の加茂打ち兼定と出会ったことから、当時の志田さんが単に金持ちの愛刀家だったから兼定を加茂に招いたのではなく、 もっと深い意味があったのではなかと考えるようになったのです。  当時、新潟県でも一地方の小さな町でしかない加茂に、如何に会津で人気のある刀工が来たとしても、今のように情報が瞬時に伝わる時代 ではありません。たちまち県民に知れ渡ることはあり得ないことでした。また、既に戊辰戦争は終わり、その後、明治三年には廃刀令が出て います。 そのような時代に、刀を欲しがる人はそんなに多かったはづはありません。特に、廃刀令以降は、全国に知られた数々の名工も作品が ぱったり途絶えています。それにも拘わらず兼定の作品がこれだけ沢山あることを考えると、もしかすると、志田さんが番頭さん達に近在の 資産家を廻らせて兼定の注文を取らせたのではないかと思うよになったのです。  兼ねて、加茂の志田家について情報を知りたいため、加茂市に地域の歴史に詳しい人を紹介して欲しいとお願いしたところ、加茂市文化財 調査審議会委員の関正平さんを紹介して頂いていました。  関さんに、志田家について問い合わせたところ、現在、子孫は途絶えているとのことでしたが、次のような資料をコピーで頂きました。
(地図一)
 この安政二年(一八五五)刊『東講商人鑑』の地図は、広い範囲の中で当時の神社や著名な拠点を凝縮して印したものです。  中央にある青海神社は加茂の一宮で、兼ねて有名なお宮さんです。その門前の近い所に志田家があったと聞いていましたが、大体その辺 の場所を示しており、中央のやや下に加茂町 筥数品三川屋喜左衛門とあるのが志田家です。  志田家の屋号が三川屋であることは既に「会津兼定の観音寺打ちと侠客観音寺久左衛門」の記事の中に説明しており、次のような短刀の 押し型を掲載しています。 平造りの脇指  表銘、於鴨漢三川亭兼定  裏銘、明治四未年八月日  地図の三川屋の前書きにある筥数品の「筥」の意味が解らなかったため、大正四年刊の大漢和辞典で調べたら、「昔米を入れるに用いた 園いはこ」とありました。これから推測すると中身の米を販売していたものと思われます。  平成二十六年三月一日に 三条市商工会議所運輸部会主催で長岡市の河井継之助記念館館長稲川明雄さんの講演をお聞きしました。 河井継之助は膨大な赤字を抱えていた長岡藩を、家老に就任後、短期間で黒字にしますが、越後の米を京都に販売するに当たり、年間で 一番安い時期に大量に購入し、一番高くなった時期に一揆に販売する手法を取ったとお聞きしました。要は、当時、越後米が既に全国的に 流通していたことを示しています。  関さんのお話では、志田家は水戸藩の御用商人を務めていたが、これは志田家が売り込んで獲得したものと思われる、そして幅広く多様な 商品を扱っていたそうですので、先の「筥」の文字からも水戸藩にも越後米を販売していたと推定しています。  近在に兼定の作品が沢山あることが解って来たが、志田さんが兼定を招いて、近在の資産家を廻らせて兼定の作品を売り込んだからだと 想像するようになりましたがと、関さんにお知らせ処、志田家の取り扱っていた商品は範囲が非常に広く、その中には刀も含まれていた可能性 があります、とのこと事でした。  そして頂いたのが次の地図のコピーです。
(地図二)
 そこには兼定が実際に住んでいた古川兼定と記された住いが記録されており、この地域一体は志田家の所有地だったとのことでした。  ここに兼定は約五年間住んでいたのです。  志田家の当主が如何に愛刀家だったとしても、それだけで、果たして五年間も一軒家を与えて住まわせたものでしょうか。当初の私の思いは、 志田さんは愛刀家ではあったが、商売にも長けており、兼定に刀を打たせて、その作品を近在に販売することを頭に置いて招いたのではないか、 と思うようになったのです。  県下にある数々の兼定の作品は、志田さんが近在の資産家を廻らせて注文を取って、兼定に打たせたからだと考えるようになった次第です。  次に(地図一)に描かれている文字と関連の作品と、加茂での活躍を示す作品を紹介します。 押し型一 刀 表銘 奉納青海神社明治六年葵酉年二月日古川兼定謹鍛 写真   裏銘 笠原寿昌 田代小三治 小林彦平 斎藤徳一 坂井治平 石□百次郎 □間長吉 松沢修吾 服部又七 高橋弥三郎 阿部東八  浅野健七郎 坂井助治 涌井佐吉 願主浅野永和  (□は読めない文字を示しています)   長さ 六十九・三センチ(二尺二寸九分)   反り 一・三センチ(四分三厘)   地鉄 梨地(錆のため推定)   刃紋 直刃   説明 (地図一)の中央の青海神社へ、裏銘の十五名が兼定に作らせて奉納した作品です。      なお、青海神社には他にも兼定の作品が何点かあるそうです。 押し型二 短刀 表 旭丸和泉守兼定 押し型  裏 明治四年辛未年五月十四日     南無不可思議如来   棟 越上条依東山王成需加黄金造   長さ 二十三・二センチ   反り なし   地鉄 小杢詰み、地沸付いて美しい。   刃紋 互の目を交えた緩い涛乱風。匂い深く、刃縁沸付き、働きあり出来優れる。   説明 (地図一)の通りにある当時、上条村でしたが、一八八九年(明治二十二年)に合併して加茂町となっています。 押し型三 剣 表    明治四年未三月日 押し型     奉納 為町安全       於賀茂兼定   裏 諏訪大神   長さ 二十四・六センチ   反り なし   地鉄 普段の小杢ではないく木目やや荒く、柾心あり。   刃紋 直ぐ刃調に、沸付き、細かい変化あり。   説明 諏訪神社は方々にあり、(地図一)にも二社を示しています。   元から先まで本刃が付いておらず、初刃のままです。 押し型四 脇差 表 岩代国住 和泉守兼定 押し型   裏 於越後国鴨渓精鍛   長さ 五四、四センチ   反り 〇、九センチ   地鉄 大肌。   刃紋 大のたれ、のたれの山は匂い締まり、谷には沸付いて横に沸が連なる。   説明 明治三年までは刀が数ありますが、廃刀令後以降は刀は無く、短刀が圧倒的に多くなります。脇差は両期間とも非常に少なく、      数少ない脇差で出来優れます。  次の二点は「会津兼定の作風」に発表していますが、押し型を掲載していなかったので、加茂での作品として再度掲載します。 押し型五 短刀 表銘 和泉守兼定 写真   裏銘 於越後賀茂造    長さ 二十・四センチ(六寸七分三厘)    反り なし    地鉄 細かい柾目に地沸えが付いて冴える。   刃紋 大のたれ、帽子丸く返って棟も大のたれの刃紋となる。刃淵に細かい金線が盛んに掛り、谷に深い匂いが付き、刃が冴える。    説明 和泉守兼定在銘で当時、短刀と同時作の共小刀と思われます。合わせ金具だが、手の込んだ金具で揃えた拵えが付いている。 姿整って出来が良い。 押し型六 短刀 表銘 和泉守兼定 写真    裏銘 為源川氏 長さ 十五・九五センチ(五寸二分六厘) 反り やや内反り 地鉄 小杢詰んだ梨地    刃紋 大のたれの頭に互の目が入り、匂い深い。 説明 「為源川氏」の源川氏は、信秀に明治八年の天鈿女命の鉄鏡を注文した、三条の当時の資産家源川直茂、その人です。  関正平さんから加茂についての情報を頂いたことを心から感謝致します。   (長岡支部 外山 登)

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