この論文は、私が日刀保の創立40周年記念募集論文集に応募して入選して掲載されたものです。(昭和63年)

福島家の信秀刀

              一、三条帰省後の第一作

 信秀は明治五年には皇命による切刃造りの刀や、ウィーン万国博出品刀を、明治七年には招魂杜の御神鏡を打ち上げ、刀工として数々の名誉を担って故郷の三条へ帰ってきます。帰省の正確な時期は、今まで明快にされていませんでしたが、昭和二十九年発刊の「三条市史資料」に、「刀匠栗原信秀」という小項目があり、信秀の略歴を簡単に紹介した中で、「(略)去って久しき故郷へ帰って来たのは明治七年の夏であった。(略)」と記してあるのを見っけました。
 この筆者は、鳥羽万亀造という方(故人)で、後に三条商工会議所の嘱託を勤められた地方史研究家で、私が近年、集めた信秀にかかわる地元の資料の多くが、この人が記録したもので、先の文中にも「信秀の為人及びその事蹟については、別に詳述することとしてここには概要のみを記そう。」というくだりがあり、この方が信秀について資料集めをしておられた様子が伺われます。私も種々資料を集めましたので、詳しい事はいずれ稿を改めて発表する積もりですが、帰省の時期は今の所、この「明治七年夏」が正しいようです。
信秀は三条に帰ってからも多数の作品を残しますが、帰省第一作目の作品は今まで明らかにされていませんでしたが、現在私が調べた範囲で、地元福島要吉家(現在は東京在住)に伝わる明治八年二月日の切刃造りの刀ではないかと考えています。
島家では、この刀を大切に秘蔵なさり、昭和十年、三条八幡公園に信秀の石碑を建立の折り、その祝賀記念に展示して以来門外に公開したことはなく、知る人の問では永い問、幻の名刀とされていました。
私は昭和六十一年に福島氏の御好意で、この刀を取材させて戴いていますが、この度、福島氏よりこの刀を弥彦神杜に奉納したと御連絡をいただきましたので、よく似ている今までの弥彦神杜の刀と共に改めて調査させて頂きました。よく似て同じでないこの二本の刀を比較して御紹介し併せて信秀と福島家との関係が、どうゆう因縁であったかもお知らせしたいと思います。

二、二本の切刃造り刀

今までの書物に紹介されている弥彦神杜の切刃造りの刀は、明治五年三月目の裏銘ですが、神杜の記録には、奉納されたのは明治二十年五月十一日で、新潟市古町通り藤井忠太郎よりと記録されており、これらの年記から東京での名声を伝え聞いて造らせたものを、後に奉納したものと推測されます。

次に二本の刀の概要を比較しながら説明します。
(写真1)左は弥彦神杜の刀、右は福島家の刀
福島刀は以前からの蔵刀(以後蔵刀と略します)と比べると、やや短目ですが、身幅広く浅い反りがついて、帽子伸びごころに、ふくら付き普通の刀のイメージに近く、それに対し蔵刀は細身で直刀のため、実際より長く見え、如何にも宝物然とした感じがします。
寸法の内、元幅が八分強と八分弱で殆ど変わらないのですが、ミリで表すと一ミリ違い、先幅も六分強と六分弱で変わりないようですが、実際はニミリの違いです。このように、数字より見た感じは、福島刀の方がずっと身幅が広い感じがします。



彫りは表によると画題が逆のようですが、刀と太刀では表裏が逆のため表示が違うだけで、実際は写真の如く同じ向きに、同じ画題が彫られています。(写真2)
彫りは始め福島刀が瑞雲が多く長い目に彫られており、両面に樋があり、鳳凰には瑞雲の他に桐の枝葉がからんでいるため、より入念の作かと思いましたが、よく比較すると必ずしもそうとば言えず、ある所は蔵刀が優れ、またある所は福島刀がという風に甲乙付けがたい感じでした。


この桐にっいては福島家にお伺いの折り、初めて拝見して「お宅の家紋は桐ですか」とお尋ねしたのですが、関係ないとお聞きして不審に思っていましたが、長岡支部の鑑賞会の席上辻本直男先生に、この話をした所「鳳鳳は桐の実を食べるとされているので、一対と成るものでそれでいいんだよ」とお教え頂き、初めて納得致しました。(写真3)

いずれも健全このうえのない刀ですが、特に福島刀は彫りの中に錆気がなく出来たての感じでした。蔵刀は彫りの隅々に黒く錆が沈み、それが一見彫りが深いように感じましたが、実際はどうなのでしょうか。
二本とも鍛えは非常につんでいますが、べったりとした感じは無く、ねっとりとして強く、品よく柾に流れ、地沸えも全身に付きますが、静かな沸えとなっています。恐らく彫りのための配慮と思われ、また平地の多い造りの上では特に鑑賞の対象になるようです。 刃文は沸え出来の直刃ですが、従って静かな出来です。
茎は、福島刀が短く、銘も短く、刀身に連れてやや反りがあります。福島家ではこの刀を銀行の金庫にお預けになっていた御様子で、残念な事に一部赤錆が出ており、写真も押形もはっきりしませんが、この錆は手入れによって殆ど取れるものと思います。

三、池氏と福島家と信秀の関係

それでは福島家に何故この刀が伝わったか、信秀と福島家はどういう関係にあったかを述べてみたいと思います。
福島家に池氏の過去帳が伝わっていますが、その中から重要な部分を次に抜粋します。

(略)
本理院帰白日達信士天保八丁酉年八月六日没(四十九才)九十年
(一行暗) 速得院覚悟日安信土天保八丁酉年八月二十四日没(七十二才)九十年
釈尼妙章信女天保八丁酉年八月二十六目没(七十三才)九十年
速得院の妻にして本理院及び妙西その他栗林氏妻即ち刀工栗原朝臣信秀の生母及び俗名登武女等の生母なり
釈尼妙西信女弘化三丙午年二月二十九日没(六十二才)八十一年
一男一女有り。長男初之助(清池院)放逸にして池氏の名跡廃絶す。后年豊島氏の二戸を為すといえども、その子宝なくして骨肉の因縁なき者継承し居るに依り、古き各霊位を祭る意志なきに依り后年不祭無縁とならむ事を哀れみ、特に長女貞子(深信印妙修日行信女)は本家福島家に嫁し、中興の効果を挙げし人にして、その生家たる関係上本家の子女無き時は、他家より養子して本家の分家格として、池氏を再興し永年先祖の祭礼を為さしむ事と為す。後で会津坂下町、田中鴨三郎の後妻となり、三男一女を挙げたり清池院蓮受日持信士明治十六年癸未年八月十五日没(六十三才)四十四年

右の説明最後段の九十年等の年数は、その残年を昭和元年から遡って数えたものです。
妙章に付いては、「妙章は速得院の妻で、本理院(丹蔵)、妙西(イシ)、信秀の母、俗名登武らの生母である。」事を明らかにしており、特に信秀の母に付いては、名前は書いていまぜんが、「刀工信秀の生母」である、という言い方をしています。
続く妙西(信秀の母と姉妹)に付いては「妙西は某との間に初之助と貞子の一男一女をもうけたが、初之助は放逸で子供がなかったため名跡が途絶えたので、豊島金次氏が跡を継承するが、血縁でないため(池氏の)霊を祭る意志がなく、不祭無縁となるかも知れない。福島家に嫁いだ貞子にとって(池氏は)生家である上に、彼女は福島家を中興した人であるため、仮に福島家に子供の無い時は養子してでも分家をさせて池氏を再興しその先祖を祭るようにしなさい。(略)」

以上二つの但し書きから、信秀と池氏と福島氏の関係が判りそれを表示すると、次のようになります。
福島氏によれば、池氏は平家の重臣、池中納言頼盛の一族のものが、越後に住み着いたものの子孫で、信秀が平を名乗ったのもその関係です、との事でした。
信秀の古い記録をみると、信秀の生まれを栗林氏とした後で必ず、母は池氏の出であることを記していますが、池氏がそれだけ当時の名門であった事を伺わせると思います。
初代福島要吉は佐左工門と称し三条で太物商を営み、県下に販路を持っていましたが、特に与板町を主要なお得意筋として商いをしていたため、一般に与板屋と言われていました。

当時の三条は地方の商業都市として栄え、近郊との交易が盛んで、福島家もその商人の一軒だったのですが、安政六年五月二臼(福島家の記録による)の大火で家財を消失し家運は衰退に向かい、その後文久元年に再び火災に逢い、佐左工門は不運のなか江戸へ商用に出た途中、文久三年に四十五才で客死します。
妻、貞(子)はその後女手一つで旅館業を営み(貸し座敷との記録もあり)後に福島家を再興したと、子息にいわしむる財を成します。
系図に示すように貞は信秀の従姉妹で、信秀が東京で数々の名声を得た刀工として三条に錦を飾った明治七年には、貞は四十六才にあたり(信秀は六十才)一廉の女主人だったのでしょう。このような因縁でこの刀が福島家に伝わったものと思われます。
福島家には、もう一つ信秀との因縁があります。妙西は俗名をイシと言い、池家で一男一女を産し、後に会津坂下町(ぼんげちょうと読み、歌手の春目八郎がここの出身だそうです)の田中鴨三郎に再婚し三男一女を残しますが、この一女(ツル)(やはり信秀の従姉妹にあたるのですが)の子供の一人が田中昇と言い、後に二代目要吉の養子となり福島要吉三代目を継ぐ事になります。これが現在の三代目要吉氏です。(現在八十五才)ですから現要吉氏は池氏の血筋を引いて、信秀との遠縁に当たることと成るのです。これらが判るに従って、氏が信秀に着いて特別な愛着をお持ちだった理由が理解出来た次第です。
そして福島家にも、あるいは要吉氏自身にとってもこれだけ因縁深い秘蔵刀を、この度弥彦神杜に御奉納なさるに付いては、大変な決断が必要だった事と御推察申し上げる次第です。

四、弥彦神社と信秀の作品

弥彦神社にとりましては、今までの直刀と共に二本の切刃造りの名刀を所蔵することとなり、大変おめでたいことと思います。いずれ神杜の宝物殿に展示されると思いますので、この幻の名刀もこれからは愛刀家の目に触れる機会も多いでしょう。これで弥彦神杜所蔵の信秀の作品は、有名な鉄鏡と無名の大剣と共に四点と成りました。大剣は無名であることと焼け身であるため今まで紹介されていませんでしたが私の三条で入手した記録と、弥彦神社の記録の符号から、問違いなく信秀の作品と思います。これも稿を改めて御紹介する積りです。
また、信秀が三条に帰った当時、信秀の弟の今井新造もいましたが、それらに関する資料も既に集めていますので、いずれ発表したいと思っています。信秀に関わる資料がありましたら多少にかかわらず是非お知らせ下さい。(とやまのぼる)



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