会津兼定の作風

                                                                                      外山 登

兼定と越後
 会津十一代兼定は明治になって越後加茂に滞在して鍛刀していますので、越後の愛刀家にとって準郷土刀として扱われているようです。
 兼定が滞在した加茂市が私の住む三条市の隣町であることから、私には、三条出身の信秀に次いで関心のある刀工でした。
更に、近在に兼定の作品がたくさんあったことから、自然と兼定に感心が湧き、その関連から刀剣美術の平成十年十月号に「会津兼定の
観音寺打ちと侠客観音寺久左衛門」という論文を発表させて頂いています。

 そこにも書いたことですが、兼定は「明治二年二月(三十三才の時)九月十日父近江七十六才にて没し、同日越後に罷り越し居るよう
仰せ付けられ、明治七年九月迄の五年問加茂町で生活す。この期の作品は多く新潟県下に散在する如くである」(刀美第五十二号「会津刀匠
和泉守兼定について」(米山雲外著より引用、以後米山著より引用と記します)のです。

 そんな訳で、周りにも兼定を愛好する人がたくさんいることから、今まで兼定について資料を集める事が出来ましたし、かって五年程前
に、三条の「三条市歴史民俗産業資料館」で兼定展を催す時には、作品の手配と展示のお手伝いさせて頂いたことがあり、近在にある兼定
をまとめて調べることも出来ました。

 ここでは、今まで集めた兼定の資料を整理して、作風について考察してみたいと思います。

兼定の作品
兼定の資料を年代別にご紹介します。

一、刀  表銘 奥州会津住藤原兼定押し形一-地鉄写真一
          安政二二年十二月十三日東都於千住両車払土段
          山田源蔵試之 小川郷左衛門見届
        裏銘 嘉永七年申寅九月日
       拵付 肥後一作拵え
        長さ 七十・一センチ(二尺三寸三分五厘)
        反り 一・五センチ(五分)強
        地鉄 柾目の鍛え肌に沿って荒沸えが付きに、全体にも沸え映り、飛び焼きが入り一面に地沸えが強く付く。
        刃紋 互の目、三本杉に揃った互の目の焼き頭は丸みを帯び、一部尖り刃を交え、砂流し金線激しく入り、沸え強くムラ沸え付き、
              美濃・相州伝の烈しい出来。
        説明 兼定は「十四才の時から父について、鍛法を学び、嘉永六(1853)年十六才の時、御櫓御道具御手入れ見習いとして出仕、
              技を認められ、親の肩代わり勤めを仰せ付けられ、稽古料一人扶持を賜る。嘉永七(1854)年から安政六(1859)年まで
              は親の代銘の兼定銘を切り、安政七年から文久三年まで代銘の兼定銘と、自身の兼元銘を切る。」(米山著より引用)と
              記録にありますので、この刀は十一代が十七才の時に代作代銘した作品です。柾鍛えに三本杉風の激しい刃紋を焼いた
              素晴らしい出来で、兼定の柾目には直ぐ刃が多く、乱れ刃の作品を見たのはこれが初めてでしたが、過日来宅された
              高野行光刀匠によれば、柾目の乱れ刃は他にも二本見たことがあるが、これほどに沸えの強いものは無かったとのことで
              した。なお、土方歳三の愛刀だったものも柾鍛えに乱れ刃だったとのことです。
              これは十七才にして既に名工の素質が有ったことを証明する作品で、初(うぶ)の実用拵えが付いています。
              注 「新々刀入門」(柴田光男著)年表によると兼定は嘉永七年に十六歳ということになります。

二 刀  表銘 会津住兼元 壱十有六才作押し形二
        裏銘 安政七年申年二月十三日
         江上徳隣細腰土壇払
      長さ 四十一・八センチ(一尺三寸八分)
       反り 六・七センチ(二分二厘)
      地鉄 底に小杢を敷いた板目肌。
      刃紋  沸え出来の頭の揃った互の目。
      彫り  表裏とも棒樋に添い樋。 
        説明 先の嘉永七年で十七才とすると当年二十三才に当たるのですが、表銘の「壱十有六才」は何を表すのでしょうか。(*注)
              沸え出来の互の目を焼く点で先の嘉永七年の作品と出来に共通な要素がある若打ちの作品。
              (*注)「壱十有六才」は十六歳を表すことを確認しました。裏銘の安政七年の裁断銘は後で切られたことになります。

三 刀  表銘 和泉守藤原朝臣兼定押し形三-地鉄写真三
      裏銘 慶応元年丑年八月日
      長さ 七十四・一センチ(二尺四寸五分)
      反り 一・五センチ(五分)
      地鉄 小杢目詰んで無地風となる。
      刃紋 尖り刃を交えた互の目で烈しく乱れ、二重刃掛かり、全体に激しい錵が付き、兼定としては珍しい作風で、出来が良い。 
        説明 兼定でこれだけ激しい刃紋は他に見たことがなく、兼定が自分なりに相州伝に挑戦した作品だと考えています。
              沸えの烈しい相州伝の作風に美濃の特長の尖り刃が混じるところが見所と思います。近在の愛刀家が長い間所蔵されて
              いましたが、かねて、兼定の最高傑作だと噂されていた刀です。兼定の刀は二尺三寸前後の作品が多いのですが、
              これは長い目で、京都打ちと思われ、無銘ながら銀の一作金具の初拵えが付いています。

四 刀 表銘 和泉守藤原朝臣兼定押し形四-地鉄写真四
       裏銘 慶応二寅年八月日
      長さ 七十・一センチ(二尺三寸一分)
      反り 一・五センチ(五分)
      地鉄 柾目に沸え写り付き、柾目肌に沿って沸え付き全体に地沸えが強い。
      刃紋 直刃、錵が強く、物打ちから上の刃淵に特に強く付く。
        説明 兼定の地鉄には、杢目詰むもの、柾目のもの、大板目と概ね三種がありますが、その中では柾目が一番多いようです。
              また、形態は身幅順常で、反りが適度に付いたやさしい姿が多く、この刀は最も多い柾目で、すらりとしたやさしい
              姿の作品です。

五 刀   表銘 和泉守藤原朝臣兼定押し形五-地鉄写真五
       裏銘 慶応三卯年二月日
       長さ 六十八・二センチ(二尺二寸九分五厘)
       反り 一・二センチ(四分)
       地鉄 肌もので、刃寄り荒めの柾目で、中に寄って大板目のとなり、鎬地は柾となる。
       刃紋 強い大のたれに刃淵沸えて細かい金線幾重にも入る。
         説明 兼定には横手の張った作品が少なく、元先に差が付いたやさしい姿の刀が多いのですが、この作品は横手幅がタップ
               リして元先の幅差少なく、反り少なめで、重ねが厚く、どっしりと重く、強い姿をしています。但し、切っ先は
               新々刀に間々ある大切っ先にはならず、中峰が伸びた程度です。地鉄に大肌で柾目と板目を表し、そこに兼定が最も
               得意とした大のたれの刃を焼いたもので、この刃紋の短刀は間々あますが刀は珍しい。

六 脇差 表銘 和泉守兼定押し形六
       裏銘 慶応三卯年二月日
       長さ 五十一・二センチ(一尺六寸九分)
       反り 九・四センチ(三分一厘)
       地鉄 柾目。
       刃紋 間を置いた互の目で、二つ三つ連れたものあるが特に三本杉風では無いようです。刃縁沸え付き、細かい金線幾重
               にも入る。
         説明 すらりとした姿ですが、兼定には本造りの脇差が割に少ないように思います。

七 刀  表銘 和泉守藤原朝臣兼定押し形七
       裏銘 慶応三卯年八月日
      長さ 六十九・七センチ(二尺三寸)
      反り 一・七センチ(五分六厘)
      地鉄 大板目の肌もの。
      刃紋 沸え出来の広めの直刃。
        説明 地鉄の鍛えの中では、大板目の肌ものが一番少ないのですが、その大板目の代表的な作品です。この頃は、朝臣が入った
              銘がフルネームで、入念作に切ったものの一本と想像されます。兼定には元に比べて先幅が狭まる作品が多い中で、
              この作品は前の作品と共に先幅のあるがっちりした姿です。

八 刀  表銘 和泉守藤原朝臣兼定押し形八-地鉄写真八
    裏銘 慶応四戊辰年二月日
    長さ 七〇・三センチ(二尺三寸二分)
    反り 十五ミリ(五分)
    地鉄 大板目の肌もので刃淵もほとんど肌がかる。
    刃紋 刃縁沸え付くが粗い裸沸えが少なめの匂い口閉まった直刃。
    説明 帽子伸び心に反り適度の姿が良い、大板目肌を主にして刃はすっきりした直刃を焼いています。

九 脇差 表銘 大日本鍛冶宗匠 会藩士 和泉守兼定押し形九
     裏銘 慶応四戊辰年仲秋日
     長さ 三十八・二センチ(一尺二寸六分)
     反り 〇・七センチ(二分三厘)
     地鉄 大板目の肌もの、刃淵柾がかる。
     刃紋 沸え出来の直刃、珍しく粗い裸沸えが少なく均一な出来で、打ちのけ、食い違い刃交じり、表裏ともふくらに沿って
               二重刃となり、帽子尖って返り長く、棟焼き風となる。
     説明 裏銘の仲秋は旧暦のお盆か八月を差し、戦乱の最中に十代兼定の近江から十一代の家督を相続した記念に製作した
               ものと想像される作品です。「大日本鍛冶宗匠」と肩書きがあるのが珍しい。この頃、他の脇差にも、この作品の
               ような鏨の細い小振りの銘を見ます。(「会津兼定の観音寺打ちと侠客観音寺久左衛門」に押し形あり)

十 短刀 表銘 和泉守兼定押し型十
       裏銘 明治二年八月日
       長さ 二十二・四センチ(七寸四分)
      反り なし
       地鉄 細かい柾目。
       刃紋 直刃、刃淵に細かい金線が入り、帽子丸く返って棟を互の目で焼き下がり、細かい金線が無数に入る。直刃を焼いて、
               棟焼きが互の目となる珍しい出来。
         説明 兼定は明治二年に加茂に来ますが、これは加茂打ちと思われます。
          地味な初の拵えが付いています。

十一 刀  表銘 岩代国住兼定押し型十一
          裏銘 明治三年二月日
       長さ 六十八・二センチ(二尺二寸五分)
        反り 十二ミリ(四分)
       地鉄 静かな柾目、細かい地沸えビッシリと付く。
          刃紋 直刃で、小沸え出来、刃淵控えめな打ちのけ、金線を交え全体に穏やかな出来。
       説明 切っ先伸び心でやさしい姿。加茂打ちだが岩代国と切るのは珍しい。もともと刀でも二尺三寸強の作品が多いかなで、
                加茂打ちの刀には二尺三寸を切るものが多くなります。また、加茂打ちには短刀が断然多く、たくさん造られたよう
                です。近在の先輩の話では、昔は、「また兼定か。」と言われるくらいにたくさん出たものだそうです。

十二 短刀  表銘 和泉守兼定押し型十二
         銘   明治三年八月日
         長さ 二十六・七センチ(八寸八分強)
          反り なし
         地鉄 明るく、特に細かい柾目がキレイに揃う。
         刃紋 直刃、匂い口締まり沸え強く付き金線を交え、特に冴える。
         説明 姿は重ね厚く、冠落しとなる。焼きが強く、普段の作よりも刃が冴えて沸えが強く光りが強いようです。

十三 短刀  表銘 和泉守兼定押し形十三
      裏銘 於賀茂
     長さ 十七・七センチ(五寸六分七厘)
     反り なし
     地鉄 杢目、地鉄強く肌ものとなる。
       刃紋 直刃、普段は刃寄り柾となるがこれは刃縁刃中とも杢目となる。
     説明 兼定は甲伏せ鍛えが多いようで、地が板目でも刃寄りが柾かかるのが多いが、これは刃縁、刃中も地と同じ杢目となって
              いるので、寸法が短いので普段の甲伏せではなく、丸鍛えではないかと思われます。中心も普段の錆色より錆色が澄んで
              いることから同じ鋼のように思われ、先から元まで丸鍛えにしたのではないかと思います。

十四 短刀  表銘 和泉守兼定押し形十四
           裏銘 於越後賀茂造
          長さ 二十・四センチ(六寸七分三厘)
         反り なし
         地鉄 細かい柾目に地沸えが付いて冴える。
           刃紋 大のたれ、帽子丸く返って大のたれの刃紋となって下まで焼き下がり、刃淵に細かい金線が盛んに掛り、谷に深い
                  匂い付き、刃が冴える。
         説明 菖蒲造り、地は柾目が特に細かく、そこに地沸えが微塵に付いて美しく、兼定が最も得意とする匂いの深い大
                  たれを刃と棟に焼き、姿が整って美しく出来が良い。
                  合わせ金具であるが、取り合わせ金具に和泉守兼定在銘の小刀が付いた当時のものと思われる拵えが付いている。

十五 刀  表銘 和泉守藤原兼定押し形十五
        裏銘 於越後国賀茂造
        長さ 六十六・八センチ(二尺二寸五厘)
         反り 一・〇センチ(三分三厘)
        地鉄 目。
        刃紋  直刃、匂い口締まる。

十六 刀  表銘 和泉守藤原兼定押し形十六
        裏銘 於越後国賀茂造
         長さ 六十七センチ(二尺二寸一分)
        地鉄 小杢目。
        刃紋 匂い深めの沸え出来の広直刃に僅かに尖り刃を入るようです。
          説明 元先の巾に差が少なく、帽子がやや伸び心の強い目の姿です。

十七 短刀 表銘 和泉守兼定
        裏銘 於加茂造
         長さ 二十八・二センチ(九寸三分)
         反り 〇・三センチ(一分)
         地鉄  板目肌物。
         刃紋 直刃。
           説明 刀には大板目の肌物がありますが、これは短刀なりのややこまか目の板目の肌物です。

十八 短刀 表銘 和泉守兼定押し形十八
        裏銘 為源川氏
           長さ 十五・九五センチ(五寸二分六厘)
           反り やや内反り
           地鉄 小杢詰んだ梨地。
        刃紋 大のたれの頭に互の目が入り、匂い深い。
           説明 「為源川氏」の源川氏は、信秀に明治八年の天鈿女命の鉄鏡を注文した三条の源川直茂と同人です。

十九 短刀 表銘 和泉守兼定押し形十九
      (後銘 昭和四十一年越後国阿部昭忠彫謹之)
         裏銘 明治五年二月日
         長さ 二十三・三センチ(七寸七分)
         反り なし。
         地鉄 小杢詰むが流れるところあり。
         刃紋 匂い勝ちの直刃。
         説明 明治五年の兼定の作品に三条の阿部昭忠(本名松一)が信秀の「横向き不動」模した彫りを施したものです。

二十 刀  表銘 奉納伊夜日子神社明治五年丑申年五月二十一日 岩代国若松住兼定北越加茂精鍛之 上高柳邑鶴巻陽作 上土倉邑鶴巻又一 
                熊森邑森川秀英伸明押し形二十
        裏銘 為家運長久 土生田邑 佐藤伝平治克匡 伊久礼邑 桑原維衣 上条邑 関善三郎宏和 児玉庄伍 原崎邑 佐藤富造善相 
                田上邑 菅原文彰 同邑 小林善四郎敬隆 保明邑 高橋文茉負信 番場平治 本間周治 世話人 加茂町 斎藤重蔵
        長さ 七十・一五センチ(二尺三寸一分五厘)
         反り 一・二センチ(四分)
        地鉄 地形の入った柾目。
        刃紋 直刃。
          説明 世話人が加茂町斎藤重蔵で合計十四名が兼定に作らせて弥彦神社へ奉納したものと思われます。(弥彦神社所蔵)

二十一 鍔・縁頭押し形二十一
        鍔 表銘 北越加茂住和泉守兼定
      裏銘 明治六年二月日

        寸法  縦二寸七分四厘(八三ミリ)・横二寸五分(七六ミリ)
       縁頭 銘  兼定
        説明  鍔の大きさから大刀用と思われる珍しい小道具の作品です。
              鍔に「北越加茂住」と銘があり、加茂住と切るのも珍しい。

二十二 刀 表銘 大日本兼定押し形二十二
          裏銘 紀元二千五百五十二年二八月日
          長さ 六十九・七センチ(二尺三寸)
         反り 一・八センチ(六分)
          地鉄 小杢詰んで梨地となり、棟寄り柾に流れる。
         刃紋 典型的な三本杉で匂い口締まって、冴える。
            説明 紀元二千五百五十二年は明治二十五年(西暦一八九二年)にあたり、鞘書きに「二刀を極精鍛錬し、一本を
                  皇太子殿下に献納し、もう一本を(籠手田)安定が幸福の祈りを以って、弥彦神社に奉納したものである。」(約文)
                  と書いてあり、さらに「明治二十六年二月二十八日奉納新潟県知事従三位勲三等籠手田安定」とあります。
                 「明治二十五(1892)年六月四日(五十五才)願いの上、皇太子殿下に自鍛の一刀を献納し、殿下奇特に
                  思し召されて酒肴料金十円を下しおかれる。」(米山著より引用)とあるように当時、兼定が後の大正天皇となら
                  れる皇太子殿下の誕生に際し鍛刀して、献上した記録があり、この刀はその時の陰打ちを当時の新潟県知事籠手田
                  安定が求めて、弥彦神社に県民の幸せを祈って奉納したということになります。

                  かねて、兼定には新々刀特有の大帽子の刀がないと書きましたが、この刀こそ、珍しい大帽子の刀で、幕末の頃に
                  この姿の刀を造っていたら、もう少し人気が出ていたかも知れません。なお、押し形の切っ先の刃紋が薄くなって
                  いますが、写真の写りの関係からで、まともな刃紋があります。(弥彦神社蔵)
                  なお、この県知事の籠手田安定は剣道六段の達人だったそうです。
                  また、加茂の青海神社には兼定の刀が二ないし三本あるそうですし、新発田の諏訪神社にも兼定があります。

作風のまとめ
一、兼定の地鉄の鍛えには柾目肌、大板目の肌物、杢目、小杢目の梨地などがあり、一番多いのが断然柾目で(*注)(押し形一、四、六、
    十、十一、十二、十四、十五)、他に大板目(押し形五、七、八、九、十七)、小杢目梨地(押し形三、十六、十八、二十二)が多い
  ようです。
    (*注)その後の調べで、小杢目肌が一番多いと感じていますので訂正します。

二、刃紋は直ぐ刃が圧倒的に多く(押し形四、七、八、九、十、十一、十二、十三、十五、十六、十七、十九、二十)、次いで三本杉か
  それが崩れた互の目(押し形一、二、六、十八、二十二)、その次が大のたれ(押し形五、十四、十八)のようです。この大のたれ刃が
  最も兼定らしい刃紋と言われています。

三、柾目肌には直ぐ刃になるのが基本のようですが、偶に三本杉と互の目乱れ(押し形一、二、六)、それと大のたれ刃(押し形十四)
  があります。

四、乱れ刃の時には小杢目梨地の場合が多いようです。(押し形三、十五、十九)

五、まれに、大板目主調に刃寄りに柾を交えたものがあります。(押し形五)

六、直ぐ刃には匂い出来の静かなものと、沸えの強いものがありますが、刃縁に金線の働きのあるものが多いようです。乱れ刃の刃縁
  には必ず細かい金線が無数に入ります。

七、刀は二尺三寸前後の刀が多く(押し形一、四、五、七、八)、明治になると二尺三寸内目の刀(押し形十一、十五、十六)が多くなる
  ようです。
八、刀は元幅に較べて先幅が狭く、反りが強めで姿のやさしいものが多いのですが、慶応三年以後になると横手幅があり、帽子がやや
  伸び心の作品が出てくるようです。

九、小道具の作品もあります。(押し形二十一)

十、加茂打ちの作品には短刀が多いと言われています。

十一、慶応年間の作品では「和泉守藤原朝臣兼定」がフルネームです。(押し形三、四、五、七、八)

 兼定の作品は、この他にも二十本以上の心中の押し形を取っていましたが、当時は、このような論文を書く積りが無かったため簡単な
中心の押し形しか採拓していなかったのが悔やまれます。ただ、それらを思い出しても、作風は右に書いたのと同じ傾向にあると思います。
地鉄の写真を比較できるように並べて載せました。
一の地鉄写真
三の地鉄写真
四の地鉄写真
五の地鉄写真
八の地鉄写真
 近年、兼定の人気が 出ているようですが、それは、どの作品を見てもそこそこに出来ていること、作風が真面目であること、作品が
解りやすい出来であることからであり、地方刀工のため兼定をまだ知らない方が多いと思うのですが、これらが理解されるに従ってもう
少し人気が出るのではないかと想像しています。                        (長岡支部 とやま のぼる)

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