会津兼定の作品
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◎ 刀 表銘 奥州住兼定(十代兼定) 押し型
裏銘 天保十一年子二月日
長さ 六十六・八センチ(二尺二寸五厘)
反り 一・〇センチ(三分三厘)
地鉄 杢目粗く流れる。
刃紋 三本杉。
◎ 刀 表銘 奥州会津住藤原兼定
安政二二年十二月十三日東都於千住両車払土段
山田源蔵試之 小川郷左衛門見届
裏銘 嘉永七年申寅九月日 写真
拵付 肥後一作拵え
長さ 七十・一センチ(二尺三寸一分四厘)
反り 一・五センチ(五分)強
地鉄 柾目。
刃紋 互の目、三本杉風に互の目が三つづつ連れるが、焼き頭は尖らず丸みを帯び
砂流し金線激しく入り、沸え強くムラ沸え付き、沸え映り飛び焼き入り美濃・相州
伝となる。
説明 兼定は「十四才の時から父について、鍛法を学び、嘉永六(1853)年十六才の時、
御櫓御道具御手入れ見習いとして出仕、技を認められ、親の肩代わり勤めを仰せ
付けられ、稽古料一人扶持を賜る。
嘉永七(1854)年から安政六(1859)年までは親の代銘の兼定銘を切り、安政七年か
ら文久三年まで代銘の兼定銘と、自身の兼元銘を切る。」と記録にありますので
この刀は十一代が十七才の時の代作代銘です。柾鍛えに三本杉風の激しい刃紋を焼
いた素晴らしい作品です。兼定の柾目の乱れ刃は初めて見ましたが、十七才にして
既に名工の素質が有ったことを証明する作品で初(うぶ)拵えが付いている。
嘉永7年作で安政4年山田源蔵の見届け人について、会津の勉強堂書店出版の慶応年間
会津藩士人名録を調べてみたところ、武具奉行京都詰め150石、小川郷左衛門とありました。
また嘉永7年10月 房総警備から引き上げ 江戸金杉陣屋に移り安政6年9月まで5年間
品川第3台場警備の人員の中に、御目付として名があります。おそらくこの時期に試し切りに
立ち会ったと思われます。
またこの後 芝中低と三田下低へ移住となりますが、芝新銭座中屋敷の御目付に1字違いで、
小川郷右衛門とあります。おそらく文字の読み違えか誤字でわないかとおもわれます。
ちなみに新人物往来社の幕末維新全殉難者名鑑に小川郷左衛門の名はなく 討ち死にを免
れたようです。この項は、幕末期の研究者 矢木正之さんから教えて頂きました。
◎ 脇差 表銘 會藩臣兼定兼元抽精神以三枚製而造之
安政四丁巳年八月吉日
裏銘 同年十一月十三日大脇毛初刃至平土
同陽士長坂勝安試之 写真
長さ 七十・二センチ(二尺三寸二分)
反り 一・三センチ(四分三厘)
地鉄 板目肌。
刃紋 匂い口の締まった細直ぐ刃に、尖り互の目入る。
説明 長がい銘文からすると十代と十一代の合作で、特に精神を入れて三枚合わせで造った
とし、裁断銘がある珍しい作品です。
先幅が細ったやさしい姿ですが、元々がそうであったようで初刃が残っています。
大小の板目が混ざった肌です。
◎ 脇差 表銘 会津住兼元 壱十有六才作
裏銘 安政七年申年二月十三日 写真
江上徳隣細腰土壇払
長さ 四十一・八センチ(一尺三寸八分)
反り 六・七センチ(二分二厘)
地鉄 杢目。
刃紋 沸え出来の互の目。
彫り 二本樋。
説明 表銘の「壱十有六才」の壱十有は十五才のことでそこに六才を加えて二十一才を
表すと聞きましたが、先の嘉永七年で十七才と較べると年令が合わないので、研
究が必要です。 (*注)
但し、出来に共通要素があり、若打ちなのに姿が良く、出来も優れます。
(*注)「壱十有六才」は十六歳を表すことでした。とすると、現在解っている範囲で
この脇差が最初の作品と言うことになります。裏銘の安政七年の裁断銘は後で
切られたことになります。
◎ 刀 表銘 陸奥会陽臣藤原兼元 注精力造之
裏銘 安政七庚申年二月吉日 中心写真-刀身写真
長さ 七十一・二センチ(二尺三寸六分)
反り 〇・五センチ(一分七厘)
地鉄 小杢目。
刃紋 明解な三本杉ではなく、尖り互の目が三本づつ連れ、沸え出来で、砂流しが盛んに入ります。
説明 小杢詰んで地沸の付いたよく鍛えられた地に、沸出来のやや崩れた三本杉を焼いた
如何にも兼定らしい作品です。
◎ 短刀 表銘 會陽臣兼元造之
文久元辛酉年八月吉日(拵付)
裏銘 君万歳 中心写真-切っ先写真
長さ 三十センチ強(九寸三分)
反り 〇・三センチ弱(一分弱)
地鉄 大肌。
刃紋 三本杉崩れの互の目、刃縁に荒沸付き、金線が盛んに掛かる。
説明 加茂打ちには短刀が沢山ありますが、江戸期の短刀は珍しい。
地味な初(うぶ)の拵が付いています。
◎ 刀 表銘 会津住兼元(拵付)
裏銘 文久二戊年八月日 押し型
長さ 七十・〇センチ(二尺三寸一分)
反り 一・四センチ(四分六厘)
地鉄 柾目。
刃紋 直刃、切っ先近く匂い口深い。
説明 十一代は兼定を襲名する前は「兼元」と切りました。
初(うぶ)の拵が付いており、金具は長岡藩牧野家の家紋柏紋で統一されています。
〇 刀 表銘 和泉守藤原朝臣兼定
裏銘 慶応元年丑年八月日 押し型-刀身写真-心中写真
拵付
長さ 七十四・一センチ(二尺四寸五分)
反り 一・五センチ(五分)
地鉄 小杢目詰んで無地風となる。
波紋 尖り刃を交えた互の目、二重刃掛かり、激しい錵付く。珍しい出来で優れる。
説明 兼定でこれだけ激しい刃紋を、他に見たことはありません。
兼定なりの相州伝ではないかと想像しています。
永く、近在の愛刀家が所蔵していましたが、かねて、兼定の最高傑作だと噂され
ていた刀で噂の通り出来が優れます。兼定には長い刀は少なく、二尺三寸前後の
作品が多いのですが、これは長いめの作品で、京都打ちと思われます。
◎ 刀 表銘 和泉守藤原朝臣兼定
裏銘 慶応二寅年八月日 押し型
拵付
長さ 七十・一センチ(二尺三寸一分)
反り 一・五センチ(五分)
地鉄 柾目。
波紋 直刃、錵が強く、地中の柾目肌に沿ってところどころ沸える。
説明 兼定の地鉄には、杢目詰むもの、柾目のもの、大板目と概ね三種があり、柾目は
結構沢山あります。これは柾目で、すらりとしたやさしい姿です。
〇 刀 表銘 和泉守藤原朝臣兼定
裏銘 慶応三卯年二月日 押し型
長さ 六十八・二センチ(二尺二寸九分五厘)
反り 一・二センチ(四分)
地鉄 刃寄り柾掛り中に寄って大板目となり、いずれも肌ものとなる。
(鎬地は柾)
刃紋 大のたれ強く、涛乱風になる。
説明 地鉄は大肌が板目で刃寄り柾目となる珍しい肌ものです。
大のたれ刃の短刀は稀にあり兼定の刃紋では一番珍重されるもので、刀にもある
と聞いていても見たことがなかったのですが、今のところ実見したのはこの刀だけ
です。噂に聞いていたのはこの刀のことなのかも知れません。
この刃紋は、兼定なりに涛乱刃に挑戦したものではないかと想像しています。
兼定には反り深めで、先幅が狭い形が多く、このような横手幅が付いて切っ先の
伸びた、新々刀然とした姿の刀は少なく、兼定の代表作の一振りと思われる。
◎ 脇差 表銘 和泉守兼定
裏銘 慶応三卯丁年二月日 写真-切っ先写真
長さ 五十センチ(一尺六寸九分)
反り 一・五センチ(五分)
地鉄 柾目鍛えに地沸えが烈しく付き肌ものとなる。
刃紋 間を置いて緩い互の目、緩い箱刃を焼き、長い金線、砂流しが掛かる。
説明 柾目に乱れ刃の作は偶に見るが、兼定としては少ない方である。
ムラ沸えが柾目に連れて烈しい出来である。
◎ 脇差 表銘 和泉守兼定
裏銘 慶応三卯年八月日 写真
長さ 三十九・七センチ(一尺三寸一分)
反り 〇・九センチ(三分)
地鉄 表、大板目の肌もの 裏、底に大肌が沈み、詰んで流れる。
波紋 のたれ。
説明 平造りの体配は良い。この頃の銘に、時々、細鏨の小銘がある。
大板目が主体だが、表裏に鍛えが少し異なる。
◎ 刀 表銘 会藩士 和泉守藤原朝臣兼定
裏銘 慶応三卯年八月日 押し型
長さ 六十九・七センチ(二尺三寸)
反り 一・七センチ(五分六厘)
地鉄 大板目の肌もの。
波紋 直刃。
説明 地鉄の鍛えの中では、大板目の肌ものが一番少な目ですが、その代表的な作品
の1本です。朝臣が入った銘がフルネームで、入念作に切ったと想像されす。
横手幅が広めの体配です。
◎ 刀 表銘 会津刀匠 和泉守兼定
裏銘 慶応三卯年八月日 切っ先写真-中心写真
長さ 四十・五センチ(一尺三寸四分)
反り 〇・八センチ(二分六厘)
地鉄 大板目の肌もの肌立つ。
波紋 直刃。
説明 地鉄は大板目の肌もので、その中でも特に肌がはっきりした作品で兼定としては
肌を強く出した珍しい作品だと思います。
◎ 刀 表銘 陸奥士 和泉守藤原朝臣兼定
同年九月廿七日於千住両車士壇拂切手山田源蔵
裏銘 慶応三 為木嶋重平抽鍛錬精
同年同日於同所二ツ胴土壇拂切手木嶋勇太郎 刀身写真-中心写真
長さ 八十・三センチ(二尺六寸五分)
反り 一、三センチ(四分三厘)
地鉄 一部に肌が混じるが全体は小杢詰む。
刃紋 三本杉であるが、互の目の頭が丸みを帯び、三本杉が大のたれに見える。
説明 手に持って鑑賞した十一代の中では一番長く、どっしりして出来がよい。
刃紋の三本杉は焼き頭が丸みを帯び、三つ連れた山に谷が入り、大のたれの刃紋
のようになる。
ウブの太刀拵えが付いている。
(22/10/29からの大刀剣市に「坂本竜馬と幕末の名工達」の展示がされますが、そこに展示されます)
◎ 刀 表銘 和泉守藤原朝臣兼定
裏銘 慶応四戊年二月日 写真-切っ先写真
長さ 六十九・七センチ(二尺三寸二分)
反り 一・五センチ(五分)
地鉄 大板目の肌もの。
波紋 直刃。
説明 上にある慶応三年の大板目の肌ものとよく似ている作品ですが、この方が体配は良いようです。
刃縁は締まって働きでは劣るかも知れません。
身幅が広く、切っ先が伸び心の朝臣入りのフルネームで、同じく入念作と思います。
元に比べて先幅もあるがっちりした姿です。
◎長巻 表銘 会津刀匠和泉守藤原朝臣兼定
裏銘 慶応四戊辰年壬四月於北越観音寺邑為松宮直秀君造焉 押し型
長さ 八十・〇センチ(二尺六寸四分)
反り 一・六センチ(五分三厘)
地鉄 小杢を敷いた柾目。
刃紋 直刃。
説明 「松宮直秀」は観音寺村に住む観音寺久左衛門という侠客の大親分で、会津藩に
味方するのですが、この長巻は実戦に使ったらしく、生ぶの時には物打ちの辺に
刃欠けがあり、今も鎬に刀傷が残る。
戊辰戦争の最中、会津藩は長岡藩を支援するために兼定をこの松宮の所へ派遣し
ますが、わずか約一ヶ月後くらいに長岡城の落城で会津に帰ります。
それを証明する貴重な作品。
◎脇差 表銘 会津刀匠和泉守藤原兼定
裏銘 慶応四戊辰年五月佳日為芳斎富良君於観音寺村造之 押し型
長さ 三十一・八センチ(一尺五厘)
反り 〇・六センチ(二分)
地鉄 柾目。
刃紋 直刃。
説明 弥彦村の隣にある分水町に富取芳斎という画家がおり、拙宅にもその掛け軸が数本
ありますが・・・、観音寺村の松宮直秀が芳斎に画を習っていたそうで(そう記した文献
があります)、兼定がその芳斎の為に造った短刀です。出来が良い。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 慶応四年八月日 刀身写真-中心写真
長さ 二十六・五センチ(八寸七分五厘)
反り 内反り
地鉄 柾目、地沸付く。
刃紋 直刃、刃縁に沸いが強く着き、物打ちから焼き幅が広めになり、帽子尖り心に返って長く下る。
説明 慶応四年は戦の最中なので短刀の作品は珍しいと思います。
重ねやや厚め、刃縁沸強く、柾目に地沸が付き、保昌伝の掟通りに物打ちの辺から帽子に掛けて
焼が広めとなっています。(スキャナーのガラスの傷と塵が映っているのでお含み下さい)
〇脇差 表銘 大日本鍛冶宗匠 会藩士 和泉守兼定
裏銘 慶応四戊辰年仲秋日 押し型-写真
長さ 三十八・二センチ(一尺二寸六分)
反り 〇・七センチ(二分三厘)
地鉄 大板目の肌もの、刃淵柾がる。
刃紋 沸え出来の直刃、打ちのけ、食い違い刃交じり、表裏ともふくらに沿って
二重刃となり、帽子尖って返り長く、棟焼き風となる。
説明 裏銘の仲秋は旧暦のお盆か八月を差し、戦乱の最中に兼定の十代目近江守から
家督を相続して十一代を継承した記念に製作したものと想像される作品です。
出来が良い。「大日本鍛冶宗匠」の肩書きは幕府側での我こそはの意味でしょうか。
◎刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 明治二巳年二月日 ナカゴ-全身表-全身裏-刃紋拡大-拵えの柄-拵えの鍔
長さ 六十六・五センチ(二尺二寸弱)
反り 一センチ(三分三厘)
地鉄 小杢目ですが、底に大肌が窺えます。
刃紋 直刃、全体に刃縁に沸付き、中ほどより下方長く強いに沸で二重刃となり、横手で盛り上がり
激しく沸て、先小丸に返る。
説明 戊辰戦争は官軍の勝利で終わり、慶応四年九月に明治元年に還元されますので、この作品は
戦いが終わった後の作品を示します。
官軍の兵士は農民が多かったそうですが、戦勝の記念に兼定の作品を所望したそうです。
本人は造るのを嫌がったが藩主の命により密かに一カ月鍛刀したと言われています。
裏銘の明治二年二月日は前年九月以降の作であることを示し、二年九月に加茂に来る前の会津打ちです。
当時のままと思われる拵え付。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 明治二年八月日 押し型
長さ 二十二・四センチ(七寸四分)
反り なし
地鉄 柾目。
刃紋 直刃、帽子丸く返って棟焼き下がり互の目。
説明 兼定は明治二年に加茂に来ますが、これは加茂打ちのようです。
地鉄が柾目で直刃を焼いて、棟焼きが互の目の珍しい出来。
刃淵に細かい金線が入ります。(地味な生拵え付き)
◎刀 表銘 若松住和泉守兼定
裏銘 明治三午年二月日 押し型
長さ 七十・三センチ(二尺三寸二分)
反り 一・〇センチ(三分三厘)
地鉄 柾目。
刃紋 直刃。
説明 鎬高く、反り少なめ、柾目細かく匂い締まり気味の直刃、加茂打ちだが、
珍しく若松住と切ってある。
◎刀 表銘 岩代国住兼定
裏銘 明治三年二月日 写真
長さ 六十八・二センチ(二尺二寸五分)
反り 十二ミリ(四分)
地鉄 穏やかな柾目、静かな地沸えビッシリと付く。
刃紋 直刃。小沸え出来で刃淵静かな打ちのけ、金線を交え全体に穏やかな出来。
説明 切っ先伸び心で姿やさしく美しい。岩代国と切るのは珍しい、加茂打ちである。
加茂打ちの刀は概して二尺三寸を切るものが多い。
〇短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 明治三年八月日 押し型-中心写真
長さ 二十六・七センチ(八寸八分強)
反り なし
地鉄 細かい柾目キレイに揃う。
刃紋 直刃、匂い口締まり錵強く付き金線を交え、冴える。
説明 姿は重ね厚く、冠落しとなる。焼きが強く、地刃冴えて普段の作よりも沸えが強い。
切っ先の拡大写真を加えたのですが、地沸えは表現出来たけど細かい柾目は表せませんでした。
〇剣 表銘 諏訪大神
裏銘 奉納 明治四年未三月日
為町安全
於賀茂 兼定 表全身写真-裏全身写真-中心写真
長さ 二十四・六センチ(八寸一分)
反り なし
地鉄 杢目白け心あり肌だち、柾目ではないが盛んに流れる。
刃紋 ところどころ沸付き、細かく乱れを伴う太直ぐ刃。
説明 身幅広い剣に広直刃を焼いた非常に珍しい作品。肌は大肌か柾か、でなければ小杢詰むのが普通
なのに、この肌は木目が流れて肌立つ珍しい出来です。
新発田の諏訪神社に兼定の刀が奉納されているそうですが、加茂にも 諏訪神社があるので、
この剣がどちらの神社へ奉納を目的にされたかは不明です。
ただ、奉納を目的に製作された、そのままで全身初刃のまま、刃が付いていません。
佐藤寒山の鞘書きに「貴重資料の一」とあります。
〇短刀 表銘 旭丸 和泉守兼定
裏銘 明治四辛未年五月十四日
南無不可思議光如来
棟銘 越上条依東□延成需加黄金造之(注、□は不明) 中心写真-切っ先写真
長さ 二十八・〇センチ(八寸八分強)
反り なし
地鉄 小杢詰んで細かく地沸付き明るい。
刃紋 のたれを交えた大小の互の目で刃縁沸付き、匂い特に深く、働きあり、明るく冴える。
説明 短刀としては長さたっぷりの順常な姿、地刃ともに明るく冴え、銘にある「加黄金造」は
何を意味するか不明ですが、注文打ちで出来が特に素晴らしい。
兼定の中でも出来が優れた部類に入ると思われる。
「越」は北越を示し「上条」は上条村で、現在は加茂市に編入されています。
◎短刀 表銘 大日本加茂 兼定
裏銘 紀元二千五百三十四年二月全身押し型-中心写真-刀身写真
長さ 十九、七センチ(六寸五分弱)
反り 内反り
地鉄 小板目肌よくつみ、処々柾がかり、淡く映り立つ。
刃紋 中直刃、元は匂い口締まり、上にいってやや小沸つき、匂い口明るい。
帽子 直ぐに丸に返り、返りやや長く棟による。
説明 銘文の「大日本加茂兼定」「紀元二千六百三十四年二月」が珍しい。
皇紀2534年は明治7年、加茂での最後の年の作品です。
別掲の兼定年表に皇紀2535年(明治8年)の作品が2振あるが、本作は7年なので
今のところ、皇紀年紀では最も古いものになるようです。
上の説明もそうですが、次もこの資料をお送り下さったM様のメモから引用させて頂きました。
「ウブの木ハバキの付いた古い鞘の鞘書きに「郡家 愛刀」とあり、越後加茂の当時の
名家かとおもわれます。
他に、これも当時の正絹でできた刀袋がついています。
刀身は小板目肌がよくつみ、処々柾があらわれ、直刃を焼いております。
地金をよく観察すると淡く映りがたっていることに気づき驚かされました。
新々刀、現代刀でも上作のものは映りが稀に見受けられます。」
◎短刀 表銘 兼定 写真
長さ 二十二・五センチ(七寸五分)
反り なし
地鉄 木目肌立つ。
刃紋 互の目小乱れ、錵強く付き激しい出来。
説明 姿は重ね順常で、鍛えは兼定としては珍しく肌立ち荒々しく、焼きも珍しい小乱れ
となり普段の作よりも沸える。
銘は珍しい二字銘だが、加茂打ちである。
○短刀 表銘 兼定(生拵付)中心写真-切っ先写真-拵え写真-柄写真-頭小尻写真
長さ 二十一・二センチ(七寸)
反り なし
地鉄 小木目詰む。
刃紋 三本杉崩れの互の目。
説明 姿は重ね順常で、鍛えは小木詰む。
銘は二字銘だが、加茂打ちと思われる。
ウブの拵え付き、鍔と栗型は揃いだが、他はバラバラで玩具拵えというそうです。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 応宇佐美祐愛需 於越後国加茂造全身写真
長さ 二十二・四センチ(七寸四分)
反り なし
地鉄 小木目詰み、地沸がビッシリ付く。
刃紋 直刃。
説明 加茂打ちで発注者名のある。宇佐美祐愛については、今の所解りません。
小杢詰み、細かい地沸付いて美しい山城伝の短刀ですが、底に鍛え肌が透けて見えて珍しい。
(写真はスキャナーで撮りましたが、ゴミとガラスのキズが映っていますでお含み下さい)
○短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 於越後国造(生拵付) 心中写真-全身写真-刀身写真-拵え写真-鞘写真-頭小尻
長さ 二十八・二センチ(九寸三分)
反り 〇・三センチ(一分)
地鉄 小木目詰む。
刃紋 直刃。
説明 長めの短刀でやや反りの付いたやさしい姿となる。
薄っすらと初刃残り、小杢詰むが底に大肌が窺え、写り立つ。
兼定は加茂に於いての作にも、裏名にさまざまな書き方をしており、ここに「於越後国造」とあるのも珍しい。
刀身写真は継接ぎしています。
当時のウブの一作拵えが付いている。(小柄は後付けです)
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 於賀茂 写真-拵え写真
長さ 十七・七センチ(五寸六分七厘)
反り なし
地鉄 木目、肌ものとなる。
刃紋 直刃、刃中も木目となる。
説明 兼定は刃寄りが柾掛るのが普通だが、刃中も木目となる珍しい出来。
小振りなので、普段の甲伏せではなく、中心の錆色も綺麗なことから、恐らく先か
ら元まで丸鍛えだと考えられる。
合わせ金具であるが、時代物と思われる正月模様と縁起物で揃えた拵えが付いている。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 於越後賀茂造 写真-拵え写真
長さ 二十・四センチ(六寸七分三厘)
反り なし
地鉄 細かい柾目に地沸え付く。
刃紋 大のたれ、刃淵に細かい金線盛ん。
説明 地は、柾目が特に細かく、そこに地沸えが微塵に付いて美しい。
そこに兼定の最も得意とする大のたれ匂い深い刃を焼いて出来が良い。
地元の歴史資料館で十一代兼定展を開催の折、大野義光師が仲間とお出でになり、
短刀の中でこれが一番姿形が優れている、と言われた作品です。
合わせ金具であるが、小刀が兼定なので合わせ金具であるが当時に揃えたと思われ
る金具の拵えが付いている。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 於北越賀茂作 中心写真-切っ先写真
長さ 二十三・五センチ(七寸七分六厘)
反り なし
地鉄 小杢詰んで無地風となる。
刃紋 谷のある大互の目で、匂い絞まり心に刃縁に叢沸出付き、谷に沸厚く、焼き頭に細かい働きあり、
鋩子返って大互の目が刃紋の谷に向かって棟焼きとなり元まである。
説明 この大互の目の刃紋は兼定の特徴である。これは珍しく小杢詰んだ地に焼いている。
姿は末備前のそりのある剣の形を取っている。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 於加茂造 中心写真-切っ先写真
長さ 二十八・二センチ(九寸三分)
反り 〇.三センチ(一分)
地鉄 木目肌物となり、薄い映りが立つ。
刃紋 匂い出来の静かな直刃で鋩子返るあたり掃き掛ける。
説明 短刀の地鉄は柾目か小杢目のものはありますが、これは珍しい肌物で、
珍しい作品である。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 於新発田造 中心写真-刀身写真全-刀身写真
長さ 十三・八センチ(四寸五分五厘)
反り 内反り
地鉄 小杢詰む。
刃紋 大のたれ。
説明 新発田の諏訪神社に兼定の刀が奉納されていまですので、新発田で作刀した可能性が
あり、かねて、新発田打ちの短刀があると噂に聞いていましたが、そのうちの1本だと思います。
小品ですが、のたれの刃紋を旨く焼いている。
◎脇差 表銘 岩代国住和泉守兼定
裏銘 於越後国鴨渓精鍛 刀身写真-中心写真
長さ 五十四・五センチ(一尺八寸)
反り 〇.九センチ(三分)
地鉄 大板目の肌もの。
刃紋 大のたれ、匂い出来で渓の匂い口深く、刃先近くに至る。
説明 切先大きく伸び、元先幅変わらぬ豪壮な姿、兼定には少なめの体配で出来優れる。
加茂を時に鴨渓と銘する作があり、加茂打ちの脇差の中では珍しい作風で優れた作品である。
◎脇差 表銘 鴨渓三川亭兼定
裏銘 明治四未年八月日 押し型
長さ 三十三・三センチ(一尺一寸弱)
反り 〇・五センチ(一分七厘)
地鉄 小杢に板目混じる。
刃紋 三本杉で刃中働きあり。
説明 兼定が加茂で滞在した志田家の屋号が三河屋だったため、ここには
「鴨渓(かもだに)三河亭」に於てとの為書きがある。
◎短刀 表銘 和泉守兼定
昭和四十一年越後国阿部昭忠彫謹之 写真
裏銘 明治五年二月日
長さ 二十三・三センチ(七寸七分)
反り なし。
地鉄 小杢流れる。
刃紋 直刃。
説明 明治五年の兼定の作品に三条の阿部昭忠(本名松一)が信秀の
「横向き不動」の彫りを模した彫りをしたものである。
◎刀 表銘 奉納伊夜日子神社明治五年丑申年五月二十一日
岩代国若松住兼定北越加茂精鍛之 写真
上高柳邑鶴巻陽作 上土倉邑鶴巻又一 熊森邑森川秀英伸明
裏銘 為家運長久 土生田邑 佐藤伝平治克匡 伊久礼邑 桑原維衣
上条邑 関善三郎宏和 児玉庄伍 原崎邑 佐藤富造善相
田上邑 菅原文彰 同邑 小林善四郎敬隆 保明邑 高橋文茉負信
番場平治 本間周治 世話人 加茂町 斎藤重蔵
長さ 七十・一五センチ(二尺三寸一分五厘)
反り 一・二センチ(四分)
地鉄 地形の入った柾目。
刃紋 直刃。
説明 世話人が加茂町斎藤重蔵で合計十四名が兼定に作らせて弥彦神社へ奉納した
ものと思われる。(弥彦神社所蔵)
◎刀 表銘 奉納青海神社明治六年癸酉年二月日古川兼定謹鍛 写真
裏銘 笠原寿昌 田代子三治 小林彦平 斎藤徳一 坂井治平 松沢修吾
服部又七 高橋弥三郎 阿部東八 浅野健七郎 坂井助治 涌井佐吉
浅野永和
長さ 六十九・三センチ(二尺二寸九分)
反り 一・三センチ(四分三厘)
地鉄 梨地(錆のため推定)
刃紋 直刃。
説明 裏銘の十五名が兼定に作らせて青海神社へ奉納したものと思われる。
錆びているのが勿体無い。
青海神社にはこの他に兼定が二本あると言われている。(青海神社所蔵)
◎鍔・縁頭
鍔 表銘 北越加茂住和泉守兼定 写真
裏銘 明治六年二月日
寸法 縦二寸七分四厘(八三ミリ)・横二寸五分(七六ミリ)
縁頭 縁銘 兼定
説明 鍔の大きさから大刀用と思われます。小道具の作品が珍しい上、鍔に
「北越加茂住」と銘があり、加茂住と切るのは珍しい。
◎脇差 表銘 和泉守兼定
裏銘 明治六年八月日 写真
長さ 三十九、七センチ(一尺三寸一分)
反り 〇、五ミリ(一分七厘)
地鉄 小杢詰む。
刃紋 三本杉。匂い締まり心の典型的な三本杉で冴える。刃淵に裸沸えが付く。
説明 元先の幅差少な目で切っ先伸び心の短か目の脇差。
三本杉を焼く場合は地鉄が小杢になる場合が多いようです。
◎刀 表銘 大日本 兼定
裏銘 紀元二千五百五十二年二月日 中心写真-切っ先写真
長さ 六十九、二センチ(二尺二寸八分四厘)
反り 一、五センチ(五分)
地鉄 小木詰んで細かい柾となる。
刃紋 三本杉崩れで、小模様の尖り心の互の目が連れ、刃淵に柾目が掛かった細かい働きあり。
説明 元幅と先幅の左が少なく切っ先の伸びた豪壮な体配です。中心はまだ錆があまり付いていない状態です。
この年紀は明治25年に当たり、全く同じ銘で体配が同じような刀が弥彦神社に奉納されています。
◎刀 表銘 和泉守兼定
裏銘 明治二十八年三月十九日 写真-地鉄の写真
長さ 六十五、九センチ(二尺一寸七分六厘)
反り 九、四ミリ(三分一厘)
地鉄 大板目の肌物、詰む。
刃紋 尖り心の互の目連れ、三本杉心あり、刃淵柾目、大板目の働き盛んで刃方に従い柾目強い。
説明 身幅、重ねガッチリで、反り少なめ、先幅やや狭まり、スラリとした姿。
長い間、鍛刀を中止していたのですが、明治27年に日清戦争がはじまり、明治28年の4月に
日清講和条約が調印され、その後、35年には日露戦争が始りますので、制作された頃は
戦雲急を告げる頃だったと思われます。
また、この時代に「和泉守兼定」と切っていることも珍しく、珍しい作品です。
明治100年を記念した「会津ゆかりの名刀展」に出品されています。展示資料
〇刀 表銘 大日本兼定
裏銘 紀元二千五百五十八年八月日 全身写真
長さ 六十九、三センチ(二尺二寸八分七厘)
反り 一、二センチ(四分)
地鉄 柾目。
刃紋 三本杉。焼き頭に柾目が掛かっています。
説明 反り少なめ、身幅元先変わらず、切っ先伸びて大帽子となり、新々刀を代表する一姿です。
幕末から遥か過ぎており、刀工が少なかった時代です。「大日本兼定」と切ったのは世界に
誇る日本の刀工であると示しているようです。柾目に三本杉という特徴ある作風です。
紀元二千五百五十八年は明治三十一年だと思います。