第一回薫山刀剣学奨励基金による研究論文・入選

栗原家のその後

信親の小刀

郷土(新潟県三条市)出身の刀工、栗原謙司信秀の事跡を調べるため、長年資料集めをしていますが、今まで、遺品が伝わる信秀の弟今井新造の御子孫と、かって、信秀の従姉妹が嫁いでいた福島要吉家には直接お伺いして取材をさせて頂きました。(この内、福島家に伝わる遺品刀について協会の創立四十周年記念論文集に「福島家の信秀刀」と題して発表させて頂いています。)

しかし、信秀直系の栗原家は、戦災で家を焼かれて遺品を焼失しているとの事でしたので、お伺いする代わりに信秀の曾孫で御当主の巌氏から書面で種々御教示を頂いて来ました。
次の引用文は氏から頂いた資料の一つで、刀工として栗原家の跡を継いだ信秀の娘婿信親の造った刃物について書かれているものです。

「小刀の味

飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するように、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するようになる。われわれ彫刻家は、小刀(こがたな)が木彫の道具、まるで生き物のように此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。
幾十本の小刀を所持していても、その一本一本の癖や能力を事こまかに心得て居り、それが今現にどうなっているかをいつでも心に思い浮かべる事が出来、仕事する時に当たっては、殆ど本能的に必要に応じてその中の一本を選びとる。
(略)わたくしの子供の頃には小刀打ちの名工が二人ばかり居て彫刻家仲問に珍重されていた。切出しの信親。丸刀(がんとう)の丸山。切り出しというのは鉛筆削り等に使う、斜めの刃のついている形の小刀であり、丸刀というのは円い溝の形をした突いて彫る小刀である。
当時普通に用いられていた小刀は大抵宗重(むねしげ)という銘がうってあって、此は大量生産されたものであるが、信親、丸山などになると数が少ないので高い価を払って争ってやっと買い求めたものである。
此は例えば東郷ハガネ(*1)のような既成の鋼鉄を用いず、極めて原始的な玉鋼と称する荒がねを輔(ふいご)で焼いては鍛え、焼いては鍛え、幾十遍も折り重ねて鍛え上げた鋼を刃に用いたもので、研ぎ上げて見ると、普通のもののようにぴかぴかとか、きらきらとか、いうような光り方はせず、むしろ少し白っぽく、ほのかに霞んだような、含んだような、静かな朝の海の上でも見るような、底に沈んだ光り方をする。光りをつつんでいる。
そうしてまっ平らに研ぎすまされた面の中には見えるような見えないようなキメがあって、やわらかであたたかく、まるで息をしているかと思われるけはいがする。おなじそういう妙味のあるうちにも信親のは刃金が薄くて地金はあつい。地金の軟らかさと刃金の硬さとが不可一言の調和を持っていて、いかにもあく抜けのした、品位のある様子をしている。当時、いやに刃金のあつい普通のぴかぴか光る切出しを持たされると、子供ながらに変に重くるしく、かちかちしていてうんざりした事をおぼえている。(略)

為事場(しごとば)の板の問に座布団を敷き、前に研ぎ板とみを、向こうに研水桶(とみずおけ-小判桶)を置き、さて静かに胡座(あぐら)をかいて膝に膝当てをはめ、膝の下にかった押さえ棒で、ほん山の合わせ研を押さえて、一心にこういう名工の打った小刀を研ぎ終り、その切れ味の微妙さを檜の板で試みる時はまったくたのしい。(昭和12・12)」(傍線追加、新仮名使いになおす。筆者、後も同。)

これは彫刻家の高村光太郎(*2)が著した『美について』(角川文庫)の中の一部分で、傍線の信親は刀工として信秀後の栗原家を継いだ人ですが、刀が不要の時代だったため、小刀や彫刻刀を製作する刃物鍛冶になったものです。
彼は刀鍛冶の修行を通して玉鋼の鍛錬に熟練していたため、彼の造った刃物が素晴らしい切れ味だった事を、良く伝えていると思います。

信親は『日本刀銘鑑』では「栗原信秀門。のち養子。元治ころ。武蔵(新々)」としていますが、巌氏によると次のような経歴となります。

嘉永二年(一八四九)千葉県印旛郡平塚村に生まれ、本名謙造と言う。
 満十三、四歳の頃上京し、その後、束京神田区小柳町の医師服部仙蔵の養子となる。
元治元年(一八六四)十六歳の時、信秀に入門。
明治三年(一八七〇)信秀の次女きんと結婚、栗原家の婿となる。
明治八年(一八七五)長男初太郎(巌氏の父)生まれる。
明治十二年(一八七九)八月、嘉仁親王(後の大正天皇)の御生誕を祝し刀剣を献上(*3)。
 その後、彫刻刀の製作に係わり、高村光雲、光太郎の父子等、切れ味が喧伝されて有名になる。
明治三十七年(一九〇四)没。五十五歳。

尚、明治元年の上野の戦争に彰義隊の一員として参加し、彰義隊が壊滅したため、命からがら逃げ帰ったと言い伝えられているとの事でした。(当時の栗原家は本郷元町春木町にあり上野に近かったとの事です。)
信親の死後、長男、初太郎が二代信親を継承して彫刻刀の製造を続けますが、昭和二十年に戦災で工場を焼失して廃業します。

彫刻家と刃物

高村光太郎は刃物に対する思い入れと、信親の小刀が如何に名品であったかを、さらに同書に書いていますので、少し長くなりますが、引用を続けます。

「絶滅の美
(略)あたりまえの事だが、美術家にとって一番大切なのは道具である。書家の(ひつぽく)筆墨、彫刻家の鑿(のみ)や小刀、これは命から二番目といいたい。
(略)私にとって彫刻の道具はこの世で最も神聖なものであり、又最愛の伴侶である。(略)昭和二十年四月十三日夜の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあえず近所の空き地にかねて掘ってあった待避濠の中へ待避したが、そこへ持ち込んだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道目、一箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであった。
眼の前でアトリエは焼けおち、中にあった蔵書と作品とはみるみる火に包まれてしまったが、何だか惜しい気も起こらず、むしろさっぱりした感じで、ただひたすら此の道具がありさえすれぱという考えのみが頭をつよく占めていた。(略)

当時の鍛工が玉鋼で鍛えたノミや小刀類の切れ味はちよっと、言葉ではいい表せない。
中でも信親という鍛工のうった切り出し(鰹節を削る小刀のような形をしたもの)如きは実に物凄いといいたくなる。第一その形がいい。
小刀の表というのは黒い背の方だが、その地金の黒い、ねばの強いような肌といい、両側を斜めに削ってあるその削り度合いの釣り合いといい、見るからに名刀の品格を備えている。この地金と鋼との厚さの釣り合い、硬さの釣り合い、そういうものが切れ味に大影響を持っている。

鍛工によってそれがそれぞれ違うので、おのおの独特の持ち味が出てくるわけである。信親という鍛工のは地金も割に軟らかく、鋼も薄く出来ている。砥石でとぐと、地金がやわらかくおりて、黒雲のような研ぎ水が出る。地金のおりる勢いで、鋼の刃先がぴたりと研げる。みると地金は刃面(はづら)の先に真一文字にうすく鋼の刃が白く光って、いかにも落ちついている。裏を返して刃裏をみれば、もちろん全面が鋼で、ただまっ平に鏡のように光っている。その光りかたが煙っている。少し白ばんで、むらむらと霧がかかっているようで、ただやたらぴかぴかとは光っていない。鍛える時打ち返した鋼の屑によって出来る木目(もくめ)が見えるような見えないような具合にかすかにある。もう随分昔から研いでは使ったので、中には始め五六寸の長さであった小刀が次第に短くなって、一番もとの地金ばかりの裏に刻印してある信親という銘が小刀の柄から出てきてしまったのもある。信親の外には丸山(まるやま)というのがあり、下っては宗重(むねしげ)になると大分落ちる。(略)(昭和25・8)」

彫刻家がよく切れて使い馴れた道具を、如何に大切にしたか、その道具さえ持っていたら、仕事はいくらでも出来るという感じが、ここには良く表現されていますし、信親の小刀に対する愛着が伝わって来るようです。

玉鋼の切れ味

刃物は良く切れなくてはいけないし、更に、刃を付ける時に研ぎやすくなければなりません。
ところが、この二つは本未相反する要素で、硬ければ良く切れるが、代わりに研ぎにくくなるはずです。
右の文中に「(信親の小刀の)切れ味はちょっと言葉ではいい表せない」として切れ味を絶賛した後で、研ぐ時の感じを「地金のおりる勢いで鋼の刃先がぴたりと研げる」と研ぎやすさを書いているように、信親の刃物は正に相反する両方の利点を持っていたのです。

日本古来の玉鋼は、硬度が高くないのに粘りけがあるため、良く切れ、しかも研ぐ時には柔らかくておりやすいという、手研ぎの刃物には最高の鋼でした。これは明治になって外国から入って来た洋鋼に勝る大きな特徴だったのです。

ところが、これほど優れている玉鋼も、その後、洋鋼に押されて影をひそめてしまい、遂には生産さえ中止され、この世から消えてしまいます。何故そうなったのでしょうか。
玉鋼については「玉鋼の焼き入れ」と題して故岩崎航介氏が書いたものが、三条金物青年会発刊の『岩崎航介遺稿集刃物の見方』に収録されていますので引用します。

「玉鋼で西洋剃刀を作って、焼き入れをしてみて驚いた。半分以上が割れてしまった。西洋剃刀は全鋼で、冷却剤は水を使用した。
水で割れるんなら、油(*4)で焼き入れしたらよかろうと、多くの人は言う。やって見ると、油では、刃先二、三分幅に焼きが入るだけで、あとは全く焼きが入らない。玉鋼に対しては、油は全然不向きである。
冷たい水では割れるので、少し湯を入れて、暖かくして焼きをいれたら、雲(*5)がっいて失格である。
雲がついては困るので、焼き入れ温度をあげたら、今度は曲がってしまう。直そうとして軽く叩くと、割れる。
玉鋼の焼き入れの困難さには全くまいってしまった。(略)

日本の玉鋼は、如何なる鋼より純粋であるから、切れ味は正に世界一である。だが焼き入れの困難は大きな欠点である。
その上もう一つ困る性質がある。それはグラインダーで研磨して仕上げをしてゆく時、少し熱くなって、焼き戻しを部分的に受けると、忽ち刃がくねくねと曲がって、廃品になるということである。急いで西洋剃刀を仕上げようとするほど、よく曲がる。といって水を掛けながら作業をすると水の為に表面が見えないので、精密な仕上げが出来ない。

斯くして玉鋼は原料として世界一の優秀さをしめし、切れ味も最高ではあるけれども、鍛錬、球状化、焼き入れ、仕上げ等の困難があるため、どうしても名人芸の少量生産になり、値段も非常に高いものになって、近代工業の対象にはならない。まことに惜しいことである。」

このように、玉鋼が非常に優れた鋼であるのに、その性能を引き出すのが如何に難しいかを述べておられます。
筆者の故岩崎航介氏については同じ書に「玉鋼の利用にとりくんで」と題して自分の半生を書いておられますので引用します。

「玉鋼研究の動機

新潟県三条市は金物の町としてしられている。
(略)ここで刃物問屋をやっていた父は、第一次世界大戦のころ積極的に海外へ進出し、(略)刃物を輸出していたが、戦争が終わるとドイツは旧販路を取り返しにやってきた。少しずつ押し返され、ついに大正十一年には競争に敗れてしまって、父の商売は左前となった。

この年に旧制高等学校を卒業した私は、父の苦労を眺め、何とか仇討ちをしたいと思案し『日本には世界一の日本刀がある。日本刀のつくり方を調べて刃物に応用すれば世界一の刃物が仕まれるであろう。そうすればドイツと競っても勝てるはずだ』との結論を出した。(略)アルバイトの口があったので、学資を調達しながら旧制東京帝国大学(今の東京大学)の文学部国史学科へ入学し、日本刀の歴史を調べ、秘伝の巻物を読むために古文書の読み方を学んだ。続いて工学部冶金科へ入り、日本刀の鍛法の科学的な研究を行い、さらに大学院で五年問研究を続け、その後さらに助手となって研究を続けた。」

氏はこのようにして、日本刀の研究で古文書を読むために東大の国文科を卒業して、更に鋼の研究のために冶金工学科を卒業され、日本刀の研究に没頭された後に、故郷の三条に帰り、玉鋼で剃刀を作る事に成功されるのです。正に、玉鋼について論ずる最遭任者であると言えましょう。

筆者は氏にお会いした事がありますし、講演もお聞きしています。また、先に引用した『刃物の見方』発刊に際しては、金物青年会の編集委員として編集後記を書かせて頂いていますのに、当時は未だ刀を好きになる前だったため、同じ町に住みながら、刀の話をお聞きする事がなかったのが残念でなりません。
現在『刀剣美術』に時々論文を発表される岩崎重義氏は氏の御長男で、現在、剃刀等の刃物の製造を継承の傍ら、刀を打ったり、後進国へ鍛冶の技術指導に行かれたり、多方面の研究に活躍されています。

刀工と刃物

明治の廃刀令により全ての刀工が職を失いますが、彼らは玉鋼の処理に熟練していましたので、その技術を生かして刃物鍛冶に転業した者が多く、その道で成功しています。
更に、その中の何人かは名工として、後世に名を残しています。
例えば、泰竜斎宗寛は故郷の山形に帰って、阿武隈川の辺で当時外国から入って来た前刀定鋏の製造を始め、「阿武隈川宗寛」の銘で販売しますが、やがて切れ味が評判になり、全国にその名が知られる事となります。(現在も同銘で販売されています。)
 訂正   泰竜斎宗寛の故郷は「山形」ではなく「福島」でしたので上記の記述を訂正します。
  追加説明 宗寛は福島県白河の出身で刀工時に既に「阿武隈川宗寛」を銘していました。
      「於江府箱崎阿武隈川宗寛」等「於江府箱崎・・・」という銘があることから、主な仕事の場は江戸だったと想像されますが、
      「於古河城中泰龍斉宗寛」との銘の作品もあります。(『日本刀銘鑑』発行所雄山閣出版(株)編集者石井昌国より)
また、石堂運寿是一は東京で鉋の製造を始めますが、これも良く切れたため有名になり、その後何代にも渡り石堂運寿の鉋として、評価される事となります。

他にも現在、東京製のラシャ切鋏を「東鋏」(アズマ鋏)として、評価していますが、これも明治初頭に職を失った刀工達が、当時、ヨーロッパから入って未たばかりのラシャ切鋏を日本に合うように造ったのが始まりと言われています。

そして、信親も彫刻刀の鍛冶として、右のように名工と評価され成功していたのですが、プロに使用される特殊な刃物だったために、一般には知られていなかったものです。

木を加工する職人は、当時、全て人力で作業しましたから、少しでも良く切れる刃物は、体が楽で能率の良い道具として珍重され、彼らは争って高名な刃物を求め、切れる刃物は、現在想像する以上に高い評価を受けたものです。
良く切れて、研ぎやすい玉鋼はそんな要望に最も適した鋼だったのですが、工業生産に適さず、高価だったため、段々と大量生産品に押され、やがて消滅してしまうのです。

小刀の実物

巌氏から書簡を頂くようになってから、何年か経った昭和六十三年の事でした。
次のような手紙を頂きました。
「(略)さて、茨城に在住の小生の妹が所持しておりました、父初太郎(二代信親)の作の印刀があり、先程私の手許に届きましたので、寸法等を別紙の通り書いて見ました。
私も大変懐かしく往時をそぞろに想い起こした次第です。信親の刻印は何分小さいので判然と致しません。
之は判子や彫刻用として作った印刀の一種でした。せめてこれが残された事を非常に喜んでいます」として、図のような図面を同封して下さいました。
この刃物を正式な名称で言えば「共柄の印刀の二分(六ミリ)」と言います。
小刀は一分おきにサイズ(*6)があり、普通は刃の角度をもっと鋭角に研ぎますが、このように彫刻用に鈍角に研いだものを小刀の一種として印刀と言います。

高村光太郎は先に「幾十本の小刀を所持していても」と書いている事から、様々なサイズの切出しや印刀とその他の彫刻刀を所持していたと思われます。

(図)二代信親作小刀(印刀)
  昭和初年代のもの
  長さ一四センチ
  厚さ一ミリ強(一四〇ミリ)
  幅六ミリ

また、使い込んだ結果「始め五六寸の長さであった小刀が次第に短くなって、一番もとの地金ばかりの裏に刻印してある信親という銘が小刀の柄から出てきてしまったのもある」とし、ている事は、小刀の小さなサイズ、例えば図の二分のような場合は、細くて手持ちが悪いなめに、柄に仕込んで使ったと思われますが、この刃を研ぎ進んで行くと、穂先が詰まります。そんな時は、柄から穂先を出すために丁度、鉛筆を削って芯を出すように、木の柄を削りますりこれを繰り返している内に、小刀が滅って行き「地金ばかりの裏に刻印してある銘が、柄から出てしまった」ものと考えます。
図では下の方の鋼の中に刻印が打たれていますが、文中のものは多分鋼境の下の地金ばかりの所に刻印してあったものと思われます。

また、巌氏は学生の頃に親に言いっけられて、製品を届けた思い出を次のように書いておられます。
「信親の彫刻力の納め先として、私の記憶。(私が小さい頃、中学生の時に時折使いに遣らされたごとがあった)によると東京人形町のうぷけ屋、日本橋の木屋、上野の清水商店、下谷のおばた屋、中野の片山商店、横山町の某商店、その他、大阪その他の間屋に送りましたリ。」
この内、日本橋の木屋は今でも高級刃物の専門店どして有名な店です。

栗原家の子孫

更に、巌氏は祖母の「きん」(信秀の二女)について次のように書いておられます。
「私自身三歳の折、祖父信親を亡くしましたので、祖父の風貌は全く覚えもありません。
又、その後間もなく駒込の方へ転居して工場を建てたのですが、その模様はかすかに記憶に残って居ります。祖母きん(信秀二女)は大正六年一月に没しましたが、その風貌はよく覚えております。小生十六歳の時で商業本科在学中の時でした。錦絵に画かれている信秀の風貌によく似ているような気がしてなりません。かなりきつい顔かたちのように感じております。」(傍線原文のまま。)


家系図も頂きましたので、信秀の直接の家系についてのみ紹介します。

この家系図から信秀の妻が「みき」と称して明治十九年に亡くなっている事が判ります。
また、信秀の長男の直系は信雄とあぐり夫妻に子供がなく、あぐりさんについては、かつて今井氏(新造の御子孫)が法事の案内を差し上げたのに御返事がなかったとの事から、亡くなられて途絶えたものと思われます。

巌氏の昭和六十一年(一九八六)のお手紙に「小生は去る七月十四日満八十五歳を迎えました。矢張り歩行が骨折れるようになりましたが、何とか毎日好きな事をして過ごしています」と書かれていましたので、現在(平成五年)、九十二歳になられます。
毎年年賀状を頂きますのに、一今年に限づて来なかったのが気に掛かっています。

お手紙の中に、筆者が信秀の調査結果を発奉する事を心待ちにしていると、度々書かれていましたので、出来るだけ早く発表したいと思いながら、仕事の合間に少しずつ書き進んでいるため、何時になったら御期待に添えるか見当が付きませんでした。
この度、取り敢えず、氏に関係の深いこの小論を発表する事で、少しでも御満足を頂けるなら幸いと存じます。
信秀に関わる資料をお持ちの方がおられましたら御教示頂ければ幸いです。

【参考文猷】
『美について』(角川文庫)
『日本刀銘鑑』(雄山閣)
『栗原信秀の研究』(新潟支部)
『岩崎航介遺稿集。刃物の見方』(三条金物青年会)
『三条鋸の沿革』(三条鋸工業振興会)

*1 東郷鋼、鉄鋼間屋河合佐兵衛商店が明治三十八年八月十八日、日露戦争の戦勝記念に時の連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥の姓を商標に権利収得したもので、製造会社はスウエーデン、ホーフスブラックスAB社。現在のSKFボールベアリング材製造会社製の鋼(『一二条鋸の沿革』による)。
*2 高村光太郎(一八八三・三・一三〜一九五六・四・二)彫刻家、詩人。彫刻家高村光雲を父として東京に生る。彫刻h絵画、書、短歌、戯曲、小説、批評、詩と文学芸術の全般で活躍する。発狂から死に至る妻智恵子との愛の生活をうたった『智恵子抄』で有名(『朝日人物辞典』による)。
*3 栗原信秀の肝究』による。
*4 水で焼き入れするピ@り油で入れた方が温度の低下がゆっくりで、一般的に許容範囲が広がり失敗しにくくなる。湯の場合もこれに似る。
*5 焼きを入れた所に雲のように、焼きの入らない部分が出来る事。
*6 印刀は彫刻刀の一種で、切出し小刀の刃の角度が浅い形です。寸法は切り刃の下の部分の一番幅の広い所を示し、分(今はミリ)で表示します。昔、鉛筆削りに使った切出しは六分(18ミリ)か七分(21ミリ)でした。
*7 この錦絵は『栗原信秀の研究』にある信秀が招魂社の鉄鏡を鍛える絵の事です。   (とやまのぼる・長岡支部会員)


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