正宗はいなかった? 上

    

 この論文は、日本経済新聞の日曜版に「美の美」として3/11/18より三週に渡って上、中、下として三回に渡って連載されました。正宗について一般の方にも解り易く、視野の広い立場で論証されていますので転載させて戴きました。

 戦争のたびに叫ぱれた不在論 犬奏騒秋まで加わって自熱。

正宗は、後世の浄瑠璃や講談本でもその名工・名刀ぶりがもてはやされ、刀鍛冶(かたなかじ)のシンボルのような存在である。ところが、この人物は明治以降、何度かその正体をくらましかけて世の中を騒がせた。

本題に入る前に、刀と正宗に関する逸話のいくつかを見ておこう。「受難の村正」という講談話がある。正宗の後継者選びが主題だ。正近、貞宗、村正という三人の弟子が鍛えた刀を川に刺し、上流から流した藁(わら)くずが刃に当たったその様子で刀の良しあしを判定したという話である。
結局、貞宗が跡継ぎになるのだが、肝心なのは、切れ昧だけにこだわる弟子の村正をしかる正宗の奮葉である。
「そもそも、刀匠の念願とする銘刀は切れるばかりが目的でない。小にしては一身を守り、大にしては天下国家を護(まも)るべきが刀の使命。いたずらに殺気を帯び凄気(せいき)を浮かべて剣の美を失うものは悪剣妖刀(ようとう)といって名刀とは言わぬものじゃ」(『講談全集」大日本雄弁会講談杜版)
いささか大時代的な話だが、刀工の覚悟が端的に言い表されている。よく鍛えられた刀の持つ力については、古く『源氏物語』の夕顔の巻にある。夕顔との逢瀬(おうせ)の時、光 源氏のまくら元に美しい女が座って恨み言を言うので気味悪く思った源氏が「刀を引き抜きて、うち置き給ひて」もののけを退敵させたという。近代では泉鏡花の話。刀剣研究家の福永酔剣氏によると、泉鏡花は新たな小説に取りかかる前には、家人の寝静まるのを待って机の前に座し、秘蔵の刀を抜き放った。そして鑑刀の三昧(さんまい)境の末、一気呵成(かせい)に書き上げるのが常だったという。

写真説明 葛飾北斎「正宗娘おれん 瀬川菊の丞」

(細判版画・部分、東京国立博物館蔵)
正宗が主人公の「新薄雪物語」に取材
した役者絵。正宗は「本朝孝子伝」な
どにも取り上げられさまざまな芝居の
主人公になった。

中国・北宋時代の政治家で、優れた学者としても知られた層宋八家の一人、欧陽脩(おうようしゅう・一〇〇七-一〇七二年)は日本刀を詩にうたった。その「日本刀歌」の一節には、「最近、宝刀が日本国から出て、越の商人がこれを大海の東で手に人れた。(中略)百金でもって好事家の手にはいったが、これを佩(お)びていると災いをはらうことが出来る」(松枝茂夫編著『中国名詩選・下』岩波文庫)とある。
詩人の直感が「災いをはらうことが出来る」とうたわせたのだ。「日本刀」といつ言葉は「日本画」と同様比較的新しく、初出は幕末以降という。宋の詩のタイトルにみる「日本刀」は八百年ほども古く、用例のさきがけかもしれない。わが国での早い例としては、一九〇〇年に新渡戸稲造の著した『武士道』がある。原文は英語だが、刀工は「心魂気迫(きはく)を打って鍛錬鍛冶」し、日本刀は「美術の完壁(かんぺき)」なものと述べている。 一方、正宗という名前が抜群のネーミングである。日本酒の名前に正宗が多い。平成十一年の時点で百五十四銘柄にあるという。元来は、天保時代に摂津の酒造家がつけた日本酒の酒銘だった。正宗(せいしゅう)が清酒(せいしゅ)に通じること、名刀正宗から酒の昧の「切れのよさ」をも加昧してつけられたという。ごろ合わせついでに言えば、正宗は隠語の世界にまで登場する。破れやすい織物のことを指す。
「よく切れる」からである。

仏教で「正宗」といえば「初祖から伝えた宗派」のこと。転じて「正しい標準とすべきものの意に用いられる」(『大漢和辞典』)。中国大陸の各地を歩くと正宗という言葉にしばしば出くわす。「正宗○○料理」という幟(のぼり)や看板が、古い街道沿いに林立していたりする。中国語で正宗は、「本場」とか「正統」の意昧である。
正宗というキャッチコピーはまさに天下無敵。刀鍛冶の宗主を自任するような名で、いかにも師と仰ぐにふさわしい響きがある。どんな刀工の名よりも立派である。
昔から世問周知のビツグネームだった刀工、正宗が「いなかった」という、正宗抹殺論は明治以降、三波にわたって巻き起こった。いずれも、その直前にぼっ発した日清戦争、日露戦争、満州事変と無縁ではなかった。戦争となれば軍刀に関心が集まる。それを引き金にして巷(ちまた)・では刀剣愛好熱が燃え盛った。そこへ格好の語題づぐりとしてい火に油を注ぐかのように正宗不在論が台頭した。
最初の火付け役は、宮内省御剣係だった今村長賀(ながよし)である。彼こそ、徳川三百年の聞に培われた天下無双の正宗像を、一変させた張本人だった。今村は明治二十九年七月三十日から八月一日まで、三回にわたって「涼宵清話」なる談話記事を読売新聞に寄せ、そこで正宗を徹底的にこき下ろした。

彼はまず、御維新後の諸国大名が東京に集まっていたころに、天下の名刀利剣の大抵は「眼(まなこ)を通した」と大見えをきってみせた。ところが、その中になかったのが刀に「正宗」と銘の切ってあるいわゆる在銘の正宗で、「これが正宗というちょるのは皆無銘で、たまさか在銘のものがあれば、それは皆擬物である。正宗という奴は婦女子にまで知られた徳な奴じゃが、在銘でこれが正宗といって信用すべきものはげに一本もない」と、既成の正宗像を一刀両断にした。
そして、正宗一派の刀の形体は「幅は広く切っ先は鋭く樋(ひ)や彫り物はあり、かつその焼き刃は大きうて見事」だが、「刀剣品格」は極めて下卑たものだと言い、「正宗はいにしえの名剣の形を破った」「高尚なる古名剣の形を一変して、極めて下卑たるものとした」と決めつけた。

その矛先はさらに、豊臣秀吉と刀の鑑定を業とする本阿弥家に向けられ、「豊臣太閤が政略的で、本阿弥家をして正宗なるものをこしらえさせたのではないか」とまで言った。つまり、正宗と鑑定されているものには貞宗、信国、兼光などの出来のよいものを正宗に極め直したものが多いというのである。秀吉が本阿弥家に言い置いて、諸国の大名の人心収らんのための最上の褒美として、正宗をこしらえさせたのではないかとみた。

もちろん、これに対して本阿弥家側は本阿弥光賀らが強く反論。今村の論を「正宗抹殺論」と呼んだので以後、その名が付いた。さらに瑠璃(るり)山人なる者がこの論争に割って入った、後の首相犬養毅だっち、役者がそろって議論は白熱。なお十人を超える論客が賛否両論を戦わせたが、結局は乱戦状態で決着はつかなかった。

写真説明 短刀 無銘 正宗(名物庖丁正宗)

(国宝鎌倉〜南北朝時代・刃長21・8a、永青文庫蔵)
極端に身幅の広い造り込みの短刀。地鉄(じがね)の
鍛えの沸(にえ)づいた肌目が美しく、放胆な刃文も
見事。関ヶ原の合戦の立役者の一人、安国寺恵えい
の所持品だった。表は素剣に爪の彫り物。裏には凡字
の彫り物。


次いで、日露戦争をうけて、正宗に疑問を投げかけたのは『刀剣と歴史』主幹の高瀬羽皐(うこう)だった。東京日々新聞に「刀剣談」を連載、正宗に関する疑問点十カ条をあげて論陣を張った。「正宗は世に言う名人ではなく、鍛錬については研究もし発明もあったが、とりわけ門人の養成にすぐれたひとで、腕前は名人とはいえない」というのが彼の結論だった。

こんな「正宗観」が昭和まで持ち越されたが、満州事変のぼっ発でまたまた刀剣熱が燃え上がった。雑誌『歴史公論』が昭和八年十月号で日本刀特集を試みた。このとき、岩崎航介という人が『新札往来』という南北朝時代の権威ある新資料を手に論陣を張った。 この本は貞治六年(一三六七年)に素眼法師という人によって著されたもので、いわば庶民用の初等教科書だった。

年代も正宗のころからはそう遠く隔たっておらず、「近代の太刀・刀の名人」として『新札往来』は、山城鍛冶に次いで相州の「新藤五国光、行光、正宗、貞宗」の名を記していた。少なくとも南北朝中期ごろには、正宗などの一党が太刀・刀の名人として庶民にまで知られていたこどがわかり、議論も一応の決着を見たのである。
さすがに、平成の世に正宗抹殺論はそぐわないが、存在を疑う空気は完全に払拭(ふっしょく)されたのだろうか。来年一月五日から、静岡県三島市の佐野美術館を皮切りに全国四会場で、正宗の名作とその系譜の名刀約五十点を集めて開く「特別展正宗〜日本刀の天才とその系譜〜」が、一つの問題提起の場となるのかもしれない。

同美術館館長で刀剣研究家の渡辺妙子氏はいま、正宗像について一つの新しい仮説を抱いている。つまり、日本が中世に遭遇した最大の国難だった蒙古襲来が、正宗とその刀を生む引き金になったのではないかというのだ。詳しくは次回に譲るが、「鎌倉末期から南北朝時代にかけての人とされている正宗は、直接、文永、弘安という二度の蒙古の襲来に立ち合ったわけではない。しかし、時の幕府は、三度目の来襲を恐れ、全国の名だる寺院に外敵調伏の触れを出した。正宗一派の刀がその加持祈とうに用いられた可能性がある。 正宗に無銘の刀が多い謎もそこから解けるかもしれない」という。 文・竹田博志

写真説明 蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)

(下巻・部分、縦39.7センチ、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
文永、弘安の役で奮戦した肥後国の御家人、竹崎季長
(たけさきすえなが)が戦功の記録に描かせた絵巻。
弘安の役の折、赤糸威(おどし)の大鎧(おおよろい)に
太刀を佩(は)いた季長の出陣姿。正宗は、蒙占襲来の
騒然とした世情の申し子のように一時代後に世に出た
とみられる。



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