正宗はいなかった? 中

正宗はいなかった?中(13/11/25号より)

家名かけ刀と対峙した目利き無銘は修験道の祈りと関係か

武器とのしての刀を観賞の対象として本格的に集め始めた大立者が豊臣秀吉だった。銘もない正宗刀を強力に世に送り出したのは、秀吉とその目利き指南、本阿弥家の人々である。

正宗の刀はほとんどが無銘である。

長尺の太刀などの、銘のある茎(なかご)の部分を切って短くすることを「磨(す)り上げ」というが、正宗にはこの磨り上げ刀が多い。一般的に、確とした在銘刀は前回紹介した「不動正宗」に「大黒正宗」「京極正宗」という異名を持つ三本の短万のほか、来年一月から三島市の佐野美術館で始まる正宗展に特別展示される徳川美術館の短刀ぐらいとされる。徳川吉宗が本阿弥光忠につくらせた古今の名刀録『享保名物帳』に載る正宗が三十九本(他に焼身が十八本)もあるのを考え合わせると、異例の少なさである。
銘もない刀の、一体どこをどう見て作刀家の名を極めるのか。雲をつかむような仕事の巧者が、刀の目利きといわれる人たちだ。古く『増鑑』には後鳥羽天皇(一一八〇〜一二三九年)が鑑刀に優れ、「道の者にもやや立ち勝りて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給(たま)ふ」とある。この時代には既に「道の者」、つまり刀剣の鑑定を事とする者がいたことが知れる。鑑刀の手引きともいえる現存最古の刀剣書は『観智院本銘尽(かんちいんほんめいづくし)』と呼ばれるもので、その一部は正和五年(一三一六年)の作という。他の美術工芸に先駆けて、刀剣の鑑定研究の書物が現れたのである。

それでは、目利きたちはどのように刀と対時(たいじ)したのだろうか。
ここに、本阿弥光悦一族のことを記した『本阿弥行状記」という書物がある。
光悦(一五五八一六三七年)の孫に当たる光甫(こうほ)らが書いたとされる。その一節は語る。
「本阿弥は家の目利きに落ち度のなき事は、十二、三の時より一言も残らず相伝をうけ、(中路)一腰(一刀)を十日も二十日も手に持ちて、骨髄を見ぬくべしと心懸(こころがけ)」「親兄弟よりも名人になるべしと精を出す……」(一部表現を改めた)
この文の後には、よそに目の利く人があったとしても、本阿弥の千分の一秤度しか刀脇差しを見ていないはずだ。正宗を一腰、吉光を三腰、義弘を一腰見たという程度では話にならない、と言っている。恐るべき白信である。「(本阿弥家の者は)日本国の刀脇ざしの中に住みて見る」ともある。

本阿弥家は刀剣の研磨、鑑定を家職とする名家で、初代、妙本は刀剣の奉行として足利尊氏に仕えたという。光悦の従兄に当たる九代目の光徳(一五五六〜一六一九年)は、本阿弥家中興の祖で、優れた鑑識家として天下にきこえ、豊臣秀吉の鑑刀のよきアドバイザーだった。

太刀を磨り上げ、磨り上げ刀を鑑定し、作者を極め、その名前を茎に金象眼で人れることを始めたのは光徳である。左ぺージの一刀は、光徳が正宗と鑑定し「城和泉守所持正宗磨上本阿(花押)」と金象眼の銘を入れたもの。短刀に名作の多い正宗の、長寸のものの典型作であり代表作である。
やや細身ながらジュン常な鎌倉様式を示し、地刃などに正宗の刀の妙昧が余すところなく発揮された名刀である。

『行状記』には「正宗」の名が折に触れて出てくる。例えば、権現様(徳川家康)秘蔵の正宗の脇差しを、光徳が御前で拝見した際、これは「焼き直し」の刀だと言下に言い放った。すると家康は、足利尊氏の添え状まで付いたものなのに、とご機嫌が悪くなり、出入り差し止めを食ってしまった。以後は専ら息子の光室が召し出されたという。同書は、御前であるのに「何の用にも立たざるものと申し上げらる程潔き人はまれなるべし」と目に曇りない光徳が、節をも曲げなかったことをたたえている。鑑定に一切の私情を挟まない厳しい姿勢を伝えている。

刀に付随する「代金子千枚」などと代付(価格を決めること)を記した紙を「折紙(おりがみ)」というが、秀吉により刀剣目利所としての本阿弥家のみに発行が許された。折紙の背紙に捺(お)された二重枠の中に「本」の字を刻んだ角印は、光徳が太閤から賜った物という。「折紙つき」という言葉はここから生まれた。

源頼朝が幕府を開いた相模の国・鎌倉に刀の名工が出たのは、鎌倉未期以降とされる。鎌倉中期には、京都や備前などの刀鍛治(かじ)が隆盛を極めていた。京都の粟田口派の国綱が、建長のころ執権、北条時頼に召されて鎌倉の地で作刀したという。その後、鎌倉鍛冶の祖となったのは新藤五国光で、右ぺ-ジ(ここでは左写真)に掲げた永仁元年(一二九三年)の年紀の作がある。
古書にいう国光の刀の地肌は「いかにも濃(こま)やかに練れたる肌にて、地色底黒目にて上青し。刃色底青めにて上うきやかに白し。にえ濃やかに多し。真砂をふるいかけたるが如し。はぜやかにきらめきあり。いかにも気高し」(『元亀本銘』)とある。
この国光の弟子に五郎正宗がいた。



写真説明 沸(にえ)と匂(におい)

鍛え上げられた日本刀は「沸出来(にえでき)」と「匂出来(においでき)」に大別される。
沸や匂は、焼き人れによってできる鋼のいちばん硬い微小組織のうち、凝結の粒子が
目に見えるほど粗いのを沸と呼び、一つ一つとしては見えない細かな微粒子を匂という。
「刃をすかして見ると秋の夜空に輝く星のようにきらきらして見えるのが沸
で、ぼっとかすんで天の川を望むような感じのものが匂」(刀剣研究の大御所、故佐藤
寒山氏の言葉)と表現される。金筋は沸がつながって刃の中に光って見えるもの。それ
が刃以外の地にあるめを地景という。冶金学ではこの紬織をマルテインサイトとかト
ルースタイトと呼んでいる。正宗など鎌倉一流の刀は沸出来が多く、備前ものは匂出来が多い。


一説に本阿弥光徳の手になるともみられている刀剣の目利き書『解紛記』には、正宗に関する記述が詳しく出ている。「正宗は鎌倉一流を作り出して惣師となる。されば此作の出来何(いず)れにすぐれ、地肌などもいかにもこまかに、底ひかりしてうきやかにすみ入り……」などと述べている。国光の「底黒目」や正宗の「底ひかり」という評言が目につく。地の黒い底光りが「鎌倉一流」の一つの特徴だった。
正宗は、諸国の作刀技法を研究した上で鍛刀法の大革新を行ったとみられている。それまでの、京や備前の刀に見る刃文が大和絵に例えられるなら、
『正宗の刃文は「雪舟の水墨画、ことに破墨山水を思わせる」と佐野美術館の渡辺妙子館長は語る。
刀剣研究家の小笠原信夫氏は「正宗の、焼き崩れの妙昧といえる激しい沸(にえ)の作風は、整然とした備前刀の刃文とはまさに逆の美で、この沸のよさ、地景、金筋などと呼ばれる刃や地鉄(じがね)に見える見所が理解できないと正宗のよさはわからない。正宗をはじめとする相州の刀を見るには数段の高い鑑識眼がいると思う」と語る。秀吉と本阿弥の一統が、正宗の美点をいち早く見いだしたのは、さすがというほかない。秀吉に次いで、正宗を強力に推したのは徳川家康だった。

それにしても、なぜ正宗は銘を切らなかったのだろうか。一説には、自分の刀は、それまでのものとは面目を一新したもので、だれが見ても正宗作とわかるだろうから、ことざらに銘を入れなかったのだ、という。しかし、これはいささか牽強付会(けんきょうふかい)に過ぎるように聞こえる。

渡辺館長は今、正宗ら鎌倉一流の作刀のナゾを解く新たなカギとして、上古の鍛冶集団の一つで、奥州・一関辺りを中心に活躍した「舞草(もくさ)鍛冶」の存在に注目する。平安末期の奥州・藤原秀衡の御所から発掘された刀子の片面を研いだところ、その地刃の沸のつき方が鎌倉一流を思わせたという。源頼朝によって、平泉・藤原氏が滅ぼされると、舞草鍛冶の大半は、鎌倉をはじめ全国へ散り、各地の鍛冶に影響を与えたとも見られている。
舞草の一統の中には月山鍛冶など、修験道と関係深いものが多い。正宗一派の作刀に修験道も関係するのではないか−渡辺館長の仮説の一つだ。鎌倉鍛冶の草分け、新藤五国光一門が刀を作り始めたのは、文永(一二七四年)、弘安(一二八一年)の両役からやや時を経た鎌倉末期。そのころ、三度目の蒙古襲来の風説におびえた幕府は、正応二年(一二八九年)の鎮西諸国の杜寺を手始めに、何度かにわたって異国降伏の祈とうを命じた。 さらに正応五年(一二九二年)、幕府は醍醐寺の権僧正、親玄に異国降伏の祈と
うを命じた。

右ぺージ(ここでは左写真)の太元帥明王像は、醍醐寺に伝わるまさに鎌倉から南北朝時代にかけての画像のひとつで、護国や怨敵(おんてき)調伏のために行われる秘法「太元帥法」の本尊である。親玄の行ったと思われる祈とうとこの画像の関係が連想されるが、その祈とうの場に霊剣の供えられていた可能性を渡辺館長は推測する。
正宗ら鎌倉一流の刀剣が、修験の祈りとどんなかかわりがあったのだろうか。
修験道と刀剣の関係について考察した伊藤満氏の著書『刀剣に見られる梵字彫物(ぼんじほりもの)の研究』には「刀工と修験道の関係」という副題がある。伊藤氏は、新藤五国光から始まって正宗や貞宗らの刀に彫られた彫り物を分析している。鎌倉刀に彫り物が目立って多いのである。
正宗には「名物観世正宗」に梵字と剣などが彫られ、「庖丁正宗」(永青文庫蔵)には不動の梵字、「大黒正宗」には梵字と剣、「向日正宗」や「九鬼正宗」には護摩箸(はし)などが彫られている。国光の弟子で彫り物の名手と伝える大進房祐慶も、師や正宗などの刀に彫り物をしているが、彼は出羽の山伏とも日光山法帥ともいい、修験道との関係が示唆されている。
正宗の子説、弟子説がある貞宗になるといっそう彫り物が多くなる。伊藤氏は数多い貞宗の梵字の彫り物から「貞宗が修験として儀軌に精通した素養豊かな人物であったことがうかがわれる。貞宗の梵字はいずれも書体が美しく見事」と述べている。

鎌倉鍛冶の刀が霊剣としての意昧合いが強ければ強いほど、個人の銘などは不要ではないかという見方も出てくる』蒙古襲来の暗雲渦巻く鎌倉に鍛えられ、その雲晴れた桃山の眼が見いだした正宗刀。正宗は、その無銘ゆえに史止最も高名な刀工となりおおせたと養豊かな人物であったことがうかがわれる。貞宗の梵字はいずれも書体が美しく見事」と述べている。

鎌倉鍛冶の刀が霊剣としての意昧合いが強ければ強いほど、個人の銘などは不要ではないかという見方も出てくる。蒙古襲来の暗雲渦巻く鎌倉に鍛えられ、その雲晴れた桃山の眼が見いだした正宗刀。正宗は、その無銘ゆえに史上最も高名な刀工となりおおせたとも言えるのである。文・竹田博志




「正宗はいなかった?下」へ

ホームページへ戻る

ご意見、ご要望がございましたらntoyama@geocities.co.jpへメール下さい。