幕末の名刀工 栗原謙司信秀

三条の一宮である八幡宮の境内に栗原信秀を記念した刀の形をした
大きな石碑がありますが、これは昭和十年に地元の刀剣会が主導して、
商工業者の寄付によって建立されたものす。

            信秀は文化十二年(西暦一八一五年)西蒲原郡月潟村に生まれました。
            父は栗林姓で、母は三条の古い名家である池氏の出身の方です。
            父が早世したため、母は三男一女を連れて、三条町 四の町の土手に
     住する太物商の今井氏に再婚します。
            信秀は長男でしたが、十三から十五才の頃、京都へ出奔したといわれ
           ます。
            只、京都で何をしていたかは確定されておりません。
        私は奥さんが有名な仏壇師の娘だったことから、仏具に関係のある
           仕事をしていたのではないかと想像しています。
            要は、仏壇に使う金具の彫金師だったのではないかと考える次第です。
      その後、三十才を過ぎてから、江戸に出て、当時、刀の名工として
       四谷正宗の偉名を取っていた清麿の弟子になり、やがて刀工として独立します。
      師の清磨には彫をした作品はありませんが、信秀は独立後初の
       嘉永五年の作品に刀身彫りをしています。
        そして、信秀は自作の刀身に彫りをすることで有名になります。
      (自分の造った刀に彫をすることを自身彫りと言います)

       やがて、戊辰戦争で官軍が勝利して明治維新政府が出来ると、新政府は
     官軍に参加して維新政府のために戦死した者の霊を祭るために、
     明治二年に招魂社という神社を建立します。
        明治政府は、この神社の御神体である御鏡三面と御剣を信秀に造らせます。

        これは、時の明治政府が、お国の神社の御神体を造るのに、信秀こそ、
       相応しい刀工であると認めたからだと考えます。
       要は、当時の日本の政府が信秀こそ、日本一の刀工であると認めた
       ことだと考える次第です。

        招魂社はその後、明治十二年に靖国神社と改名しますが、
     この靖国神社の御神体が三条出身の栗原信秀の作品なのです。

       これは信秀の出身地である三条市民にとって名誉なことであり、
     誇りであると考える次第です。

       当時、このことが河鍋暁斎が三枚続きの錦絵にしたものが沢村版から
     出版されて、新聞にも掲載されたといわれます。
       左の「北越の産 栗原信秀」をクリックすると、当時の錦絵がご覧頂けます。

       信秀は明治になってから、他にも天皇の拝刀を制作していますし、
     数々の名誉ある仕事をこなして、明治七年の夏、故郷の三条へ帰ってきます。

        三条では、当時の三条の名家源川家の鉄鏡、県内の新発田藩白勢家の剣、
       三条の一宮である八幡宮の御鏡、越後一宮の弥彦神社御鏡、その他
       沢山の名品を製作しました。

      信秀は彫の細かな仕事をするため、眼鏡を使っていましたが、ある時、
       弥彦参りの折りに、眼鏡を紛失して、眼鏡を買いに東京に行くと言って、
       明治十二年の秋に近隣に別れの挨拶のないまま旅立ちます。

     そして三条に帰ることなく、明治十三年二月に娘婿の家で癌でなくなります。
      享年六十六歳、お墓は上野の忠綱寺にあります。

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