刀剣美術平成14年11月号に所載された論文です。
靖国神社の栗原信秀のご神鏡について
刀剣美術の五二七号に「『名鏡和倭魂 新板』について」として立道恵子さんの論文が掲載されましたが、その中の信秀に関する部分で私の調べた資料と異なる部分がありますので、その部分について資料を提示して、私の考えを書かせて頂きます。
立道さんの論文は、河鍋暁斎の「名鏡倭魂新板」について述べる事を主としながらも、その前段に「本発表ではまず、『名鏡和倭魂』の『名鏡』について述べ、さらにそこから作品のテーマについて考えていきたい。」とお書きになられているように、暁斎の作品に描かれている信秀と名鏡についても詳しく述べられています。
そして、「暁斎の『名鏡倭魂』は明治七年秋の出版と考えられているので、この『明治七年二月』付けの書状で言及されている栗原信秀鍛造の『神鏡』が、暁斎描くところの「名鏡」であるということは確実であろう。しかしながら、その神鏡が、靖国神社の御霊代であるということには疑問がある。」(傍線筆者)とされて、暁斎の描いた信秀鍛造の神鏡は靖国神社へ納めたものではないのでとして、以後に、その理由を述べられています。
次に、そうお考えになられた根拠を整理して見たいと思います。
一、昭和三十二年に書かれた「栗原謙司信秀のことども」(『刀剣美術』第四十六号所載)の中で紹介されている、昭和八年に新潟県長岡市で開催された講演会における川口渉氏の「信秀は幕末の名工であるばかりでなく靖国神社の御神鏡の製作者で」という発言である。(略)それ以前には(少なくとも彼の故郷の新潟あたりでは)信秀を靖国神社の鏡の作者とは考えていなかったようである。」(傍線筆者)
二、川口氏の講演の翌昭和九年に出版された『南蒲原郡先賢伝』と、そのさらに翌年の十年に、信秀の故郷であり神鏡を奉納した新潟県三条市の三条八幡神社に建てられた、信秀を顕彰する刀剣の形をした碑の銘では、信秀の世に遺る作品として靖国神社の宝鏡を挙げている。なお、この昭和十年の碑の建設は、昭和八年の川口氏の発言による反響と調査の成果ではないかと想像される。(傍線筆者)
一で、新潟では昭和八年の川口氏の講演以前には新潟では信秀が靖国神社の鏡の作者とは考えられていなかったのではとされて、おり、二では、翌九年出版の『南蒲原郡先賢伝』の記述と、昭和十年の碑の銘文は川口氏の発言を元に書かれたのでないかとお考えになっていることを書いておられます。
三条に『三条先覚事略』という小冊子があります。
この最初のページの「緒言」と言う項目の中に次のような書き込みがあります。
「(略)当町茲に鑑みる所あり、乃ち有志相謀りて当町先覚の事跡を広く博採捜し、以って当町後進を教化し郷カン(塞との意味)の作興に資益せんことを期す、 (略) 」(仮名を平仮名にして、一部を現代仮名遣いに直し、当用漢字にない字を当て字しました)とあり、昭和二年三月の日付と、時の三条町長 渡辺寅蔵の著名があります。
要するに、先人のよい行い後世の市民のために記録するために発刊したことが解ります。
この本に「名刀家 栗原信秀」という項目があって、信秀に付いて当時市民から聞き取りしたことを元に書かれているのですが、『西蒲原郡先覚伝』の信秀のについての項目は、ほとんどこの記録から引用しているのです。
『西蒲原郡先覚伝第二編(昭和九年刊)を開くと、最初に序についで例言というページがあり、その8ページ目に「(略)又、先賢伝第一編は勿論、三条先覚事略(略)、其の著者編者に頼りて益を得る所亦極めて多し。茲に特記し謹みて深甚の謝意を表す」昭和九年一月 編集者』(傍線筆者)と引用文献の最初に『三条先覚事略』を挙げているからです。
ですから、信秀の神鏡が靖国神社に奉納されていることは、既に、昭和二年に刊行された「三条先覚事略」に記録されているのです。
「西蒲原郡先覚伝」が『三条先覚事略』から引用した証拠がもう一つあります。
私が初じめて『三条先覚事略』に出会った時、ここに、信秀の神鏡が弥彦神社、三条八幡宮の他に、加茂の青海神社にもあるとの記述を見て驚いたことがあるからです。
この「青海神社にもある」と云うのが初耳でしたので、早速、確かめに青海神社を訪問したのですが、時の宮司さん古川カン一郎さんに「うちには信秀の鏡はありません。」と言われて、記述の間違いを確認したことがありました。
所が、この『三条先覚事略』の間違いがそっくり『西蒲原郡先覚伝』にも書かれているのです。
このことからも、『西蒲原郡先覚伝』の信秀の項目は『三条先覚事略』からまるごと引用した事が解ると思います。
要するに、靖国神社の神鏡が信秀の作品であるとの言い伝えは前から三条市民(当時は町でしたが)に伝わっており、それが元となって、昭和二年発刊の『三条先覚事略』に紹介されたものなのです。
これで、川口渉氏の講演によって初めて紹介されたものではないことがお解り戴けると思います。
また、立道さんは、靖国神社の御霊代の神鏡は信秀の作品ではないと考えておられるようで、その理由を次のように書いておられます。
「靖国神社の御霊代は確かに真剣と神鏡であるが、明治四十四年刊行の『靖国神社誌』に、「神鏡は製作者未詳なれども明治元年六月旧江戸城大広間招魂祭の時、神籬に奉懸せし霊鏡」を座したと、はっきり記されいるのである。(略)」
「(略)栗原信秀は確かに靖国神社の御霊代を製作したのであるが、それは神鏡ではなく、神剣であった。」
更に、中教院の書状より判断されていることについて
「(略)『名鏡倭魂』の画中の鏡について、はじめて栗原信秀の作品を具体的に検討し、それが明治七年二月に靖国神社(当時の東京招魂社)に納められた御霊代であると指摘したのは、昭和五十一年に刊行された『栗原信秀の研究』である。
同書ではその所説の根拠として、明治七年二月付けの中教院から信秀に宛てた書状を紹介しているが、それは「今般神鏡御用申付候処抽丹誠製造候条奇特之到ニ付為褒賞別紙目録之通被事 明治七年二月中教院」と記されている。(略)」
そして、中教院と靖国神社の関係について言及され、「(略、中教院は)大教院の下部組織で、民間団体である中教院からの御用による神鏡と、靖国神社とは結びつかないのではないだろうか。
従って、『名鏡倭魂』で栗原信秀が鍛えている鏡は、明治七年二月、書状の差出人のとおり中教院からの以来で鍛造・奉納した鏡であると考えられる。」
として、靖国神社へ納めた神鏡の礼状ではなくて、中教院が発注したものではないか、要するに信秀は靖国神社には神鏡を納めていないと考えておられるのです。
私は大教院、中教院については言及するつもりはないのですが、今まで調べた資料から、靖国神社の御霊代と信秀の神鏡との関係について私の見解を書いてみたいと思います。
手元に、『三条商工新報』という新聞のコピーがあります。
昭和十年一月十五日号で、「帝都に名工の遺跡をたづねて 遺族に聴く信秀師の為人」と題する長文があるのですが、この年に信秀の石碑を建立に際し、予算300円の寄付を募り、合せて信秀の事跡を調査して発表するために、本来、刀とは関係ない著者、著名は松水となっていますが、地方史研究家の鳥羽万亀造という方が東京へ調査に行かれた時の調査記録なのです。
この記事から関係の処を引用します。
「(略)信秀師の遺族が今尚東京に現存しあり其の人々に就いて調査の歩を進めたならば必ずや得る処があろう・・・・と、(略)よし、しからば上京親しく探査のことに従おうと(略)私が上京したのは昨年の暮れも押し詰まった三十日、正月やすみを利用はしたものの其れは慌ただしい鹿島立ちであった。」
「(略)東京に現在の信秀師の遺族及び親戚としては本郷にある栗原初太郎氏と浅草にある今井長三郎氏、この二氏、一は故師の令孫にして一は愛甥、(略)」
として、信秀の孫と甥にインタビューをして、この記事を書いたことが解ります。
注 信秀が三条にいた時に、実弟の今井新造が太物商として一家を構えていますが、信秀が特に別れの挨拶をしないで東京へ眼鏡を
買いに行ったまま、癌で亡くなった後、三条に残った信秀の遺品は、この今井長三郎が相続したと思われ(信秀の造りかけの作
品などが伝わっていました)、その息子が長三郎と言い、昭和十年の石碑の除幕式に出席のために三条に来ています。
また、栗原初太郎は当時信親と銘した彫刻刀を造っており(この辺は協会の第一回薫山刀剣学奨励基金による研究論文集に発表し
ています)、信秀について伝え聞いた自筆の控えがあり(そのコピーを所持していますが)、信秀に就いては鍛冶の先祖として尊
敬の念を持っていたと想像しています。
そして、取材の結果、問題のところを次のように書いています。
「(略)明治二年起工、同五年に竣工を告ぐるに至った靖国神社(当初招魂社)の御神鏡三面は、御番鍛冶としての信秀が畏くも有栖川宮殿下御下命の文字を裏面に拝彫し心血を注ぎ赤誠をこめて従事した彼一代の傑作品、当時東京全都の巷説は彼を当代無双の名工と称揚し且つその神鏡火作りの図は錦絵となって売り出されその解説文と共に所謂洛陽の紙価を高らしめたものであったとか(略)」(傍線筆者)
として、傍線を引いた部分「靖国神社(当初招魂社)の御神鏡三面は、御番鍛冶としての信秀が畏くも有栖川宮殿下御下命の文字を裏面に拝彫し」とあり、私が今まで調べた範囲で、靖国神社に奉納されている信秀の神鏡が三面であること、有栖川宮御下命の文字を裏面に彫ったとの記録は、この記事が最初だったと思っています。
では、この部分を『三条先覚事略』は、どう書いているか、次のように書いています。
「(略)靖国神社の神鏡を奉鍛する時の如きは、故有栖川宮殿下より下絵を賜り、期間中従五位に叙せられ、斎戒沐浴以って鍛鋳を終れるものなり、彫は天鈿女命が岩戸の前にて舞を舞い給う所なりと伝えらる。(略)」(傍線筆者)
ここには、単に奉納の神鏡として三面とはしていないうえ、有栖川宮殿下の下絵についても天鈿女命が舞う図と書いています。
このように、二つの記録で別なことが書かれているのは、今後の研究の待たねばならないのですが、これは却って、二つの記述の出典が別々である証拠になると思うのです。
商工新聞の昭和十年の記事を書くほどの人は、当然、昭和二年に刊行された『三条先覚事略』を読んでいて、取材をしただろうと思われるからです。
そして、信秀の直系の遺族から取材した、この記事の中に、他にも貴重な書き込みがあるのですが、それらは追ってご紹介したいと思っています。
私が信秀の事を調べている途中に、信秀が三条で鍛刀の折りに向う槌を打ったと言われる米田孫資の子孫が私の隣の町内におられることが解って訪ねました。
其の時、応対されたお婆さんは、「主人(孫資の孫)は戦争で戦死しましたので信秀については、私は何も知りません。」と言われながらも、孫資が当時向う槌を打った時に着たという仕事着と、信秀からもらったというシャの羽織を見せて頂きましたし、「主人の弟の真左司という分家がいますが、何か知っているかも知れません。」と教えて頂きました。
(仕事着と羽織は、その後、昭和六十年の三条歴史民俗資料館での信秀展でお借りして展示しています)
その後、米田真左司さんを訪ねて話をお聞きしたのですが、さまざまな話の中で次のような話をされました。
「爺やは信秀を先生、先生と言ってとても尊敬していました。」
「昭和十年に九十三歳に亡くなりましたが、シッカリしていまして、九十歳くらいまでは仕事もしていました。」
「『三条先覚事略』の編集に際しても当然、編集者は爺やから聞き取りをしているはづです。」と言われました。
余談ですが、三条には先祖が信秀の養子になったと主張する栗山家がおられるのですが、この件で、真左司さんに質問した時には、「栗山さんはうち(実家)の裏通りにある裏口から二軒隣におられたのですが、そんな話(を栗山さんが話したこと)は聞いた事もないし、当時、私のところを差し置いて信秀のことを言える人なんかいなかったはづです。」と言われました。(この件は、いずれ項を改めて書きます)
信秀について米田家が市民から一目置かれていたことが解ると思います。
『三条先覚事略』の緒言に、「大正十三年十一月の発刊を目指したが、記録の正確を期すために発刊が遅れた」との意味の記述があることから、この編集を始めたのは、更に二三年前かと想像するですが、大正十三年としても、信秀が三条を発った明治十二年からまだ四十五年しか経っていない時なのです。
要するに、信秀の仕事を手伝った孫資を始め、まだ、信秀を直接知っている人が相当数健在でおられた頃なのです。
ですから、そういう人たちから聞き取りをして書かれたのですから、ここに記載されたものが全て正しくはないにしても(伝聞なので実際に間違いもありますが)、また、貴重な正しい記述が沢山あるのです。
「信秀のことども」などを書かれ、かって『刀剣美術』に、信秀に就いて数々の論文を発表された故渡辺淳一郎氏は、私の所属する長岡支部長を永く勤められた方で、信秀のことで時々話をお聞きした事があります。
「私は、靖国神社に御霊代の神鏡について問合せたことが何回かあるのですが、梨の礫で、一切返事がなかったんだが…、処が、辻本(直男)先生が、やったんだよ。
先生が東京国立博物館の美術課学芸員の時に、その公式な名前で靖国神社に質問状を出したんだ。そうしたら返事が来たんだよ。信秀の神鏡が三面と剣があると。」
当時、長岡支部の鑑定会の講師として、必ず辻本先生がお出でになっていましたので、次の会で先生に、このことについてお聞きしました。
「渡辺さんからお聞きしたのですが、先生が凄い事をなさったと言っておられました。信秀の御霊代のことで靖国神社へ質問状を送られて返事を貰われたそうですね?」とお尋ねしたのですが、残念ながら、この質問にはお答え戴けませんでした。
当時、私が信秀についての論文を発表する前のことでしたので、何を若造が、というお気持ちだったのではないかと想像しています。
その後、四十周年記念研究論文の募集の際に、私が「福島家の信秀刀」で応募した時には、先生から直接、添削をして戴きましたし、新潟支部で全国大会をするしばらく前に長岡支部においでの時には、その時に配る記念出版物として、「新潟なら信秀だろうから、君何か論文を書かないか?」とご提案を戴いたりしました。(これについては、時間的な余裕がなかったこと、主催が新潟支部でしたので差し出がましい事と思っていました)
更に、その後の長岡支部の会合では、「外山君、信秀が靖国神社の神鏡を造った時に、それが新聞に報道されたと言われているんだが、君、その新聞を捜してみないか?」とも言われたこともあります。(これは中央で刊行の新聞らしいので、先生が探されて見付からなかったのなら、地方にいる私では不可能だろうと思っていました)
ですから、今から考えると、先生が出された質問状の件で、その後も、思い出す度に拗にお聞きしておけば良かったと思っています。
ここまで書いて来たように、直接な証拠はないまでも、私は靖国神社の御霊代の神鏡は信秀の鍛えたものではないかと考えています。
また、河鍋暁斎の描いた三枚続きの木版も、あれほどの大作であることを考えたら靖国神社へ奉納したものを描いたものではないかと想像するのです。
信秀は明治七年の夏だったと伝えられていますが、私は今までの見聞から判断して、靖国神社の神鏡を造ったことが喧伝されてから、信秀が三条の出身だとのことが町民に知り渡り、是非帰って来てもらえないかと要望されて帰省することになったと考えています。
そう考える一番の理由が、信秀は三条で沢山の作品をつくるのですが、それにもかかわらず弟子を連れないで一人で帰って来ていることです。
ところが、すぐ福島家に伝わった剣(作銘が明治八年二月日)を製作し、更に素封家の源川直茂から神鏡(作銘が明治八年十二月日)の注文を受けるし、その後、数々の作品の製作にも取り掛かることになるのです。
その時に、米田兄弟に向う槌を頼むのですが、この神鏡に付いては、源川さんが東京の神鏡製作の報を聞いていたからこそ発注したものであり、その後に、三条八幡宮、弥彦神社に奉納された神鏡も全て靖国神社へ奉納した事にならってなされたものと想像するのです。
要するに、三条でこの三面の神鏡が造られたのは、お国の神社に奉納したほどのものなら、「俺にも欲しい、おらが町の八幡様にも、おらが国の一宮にも奉納したらどうか。」との発想からなされたものと想像するのです。
信秀の神鏡は今までは、この三面しか知られていませんが、それ以外にも三条に二面の小品が伝わっています。
いずれも三条八幡宮の作品の残鉄で造られたと想像されるもので、その一枚は、西蒲原郡田上町の大地主田巻家に伝わったと言われているものです。(写真)
これらの三条での神鏡の製作が、実は、東京での神鏡製作から引き続く話であり、それが原因で造られたものであると考えています。
注 田巻家のお屋敷は今、豪農の館「椿寿荘」として観光用に公開されています。
では、立道さんが書かれた靖国神社誌にある御霊代の神鏡についての記述、更に、中教院の礼状は、中教院が神鏡を造らせたものに対するものと思う、とのご意見に就いてはどうかということになりますが、以上のことは私が今まで集めた資料から考えてのことであり、絶対的な証拠でありません。
これからの研究で明らかにしたい、あるいはして戴きたいと思う者です。
なお、今の話と関係ないのですが、「栗原信秀の研究」に掲載されている信秀に対する公的な書状の写真について、渡辺氏からお聞きしていたことがあります。
これらは栗原家に伝わったものですが、戦前に、渡辺氏が訪問して写真に撮っておいたもので、その後、栗原家は空爆に遭って信秀の遺品などは全て焼失したため、何も残っていないとのことでした。
また、立道さんの論文の前半で、信秀の略歴を紹介した部分で、「彫り物に長じ、天鈿女命を刻んだ明治五年作の刀や、信秀の故郷越後一の宮である弥彦神社所蔵で、明治七年製作の草薙の剣の由来を彫り込んだ刀などが名高い。」(傍線筆者)とありますが、傍線の明治七年の太刀は弥彦神社の所蔵ではありません。
現在、どこにあるか解りませんが、渡辺氏が永く愛蔵しておられたものです。
注 引用文献は全て文中に明記しました。
(長岡支部 外山 登)
ホームページへ戻る